Serial Articles 初心者のためのブックガイド『母親になって後悔してる』
紹介者 おむすび小児科クリニック 発達外来 山根亜希
意表を突く、挑戦的なタイトルだ。上梓にあたって、賛否両論の声も寄せられただろう。「よくぞ言ってくれた」と快哉を叫んだ読者もいれば、眉を顰めた方もいるかもしれない。だが、「母親」になれば、「後悔」とは言わないまでも、程度の差こそあれ、一度は胸中によぎる内言ではないか。誤解を恐れずに言えば、筆者はその一人だ。自分以外の「仲間」を発見したことの安堵感。と同時に、本著を手にしたことの一抹の罪悪感。「母親」になるということは、さまざまな感情の襞を暗々裏に抱え、ままならない現実と折り合いをつけて生き抜く営みでもある。
筆者はイスラエルの女性社会学者だ。彼女は「過去に戻れるとしたら再び母になりますか?」という質問に「ノー」と答えた女性23人にインタビューを実施し、固定的で神聖視されやすい「母性」というものに一石を投じた。
世界各国で少子化が進行する中、同国の合計特殊出生率は3.00(中央統計局)と首位を誇っている。多産の背景には旧約聖書の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という教義があり、女性は多くの子を出産することが推奨されている。しかし、ひとたびページをめくると、子を持たない選択が「利己的で冷徹である」との社会通念に疑義を呈する女性の声が浮き彫りになっていく。取材に応じた女性は20代から70代と幅広い年齢層だが、みな一様に我が子を慈しみ、同時に母親役割の重圧を抱えて懸命にサバイブしてきた人たちだ。
ともあれ、興味深いのは、本著がSNSを中心に日本でも大きな反響を呼び、今なお重版が続いているという事実だ。出版社には男性からの読者カードも届いているという。これは、文化的な背景や社会構造こそ違えど、「母親」になる福音と痛苦が世界共通のテーマであり、強烈なメッセージ性をもって受け止められることを示しているだろう。翻って、母子の心理的な紐帯が強く、母性神話が根深い日本でも「母親」への風当たりは大きい。産声をあげたと同時に養育が始まる「依存労働」は、まるで賽の河原で小石を積むような果てなき物語だ。子育ては日常の「ケ」であり、絵になるようなドラマは少ない。一般的に、社会的な賞賛や評価、報酬が得られることも稀だろう。本著に登場する真面目な「母親」たちも、「理想像」と現実の自分をたえず天秤にかけ、自責感や無力感を滲ませている。役割が増えるにつれ、自分の固有名詞が消えていく遣る瀬なさ。社会から断絶される寄る辺のない不安と孤独。けれども、それらは自己責任論に帰されやすい。当事者たちは多様な語りを通して、黙殺されていた感情に気づき、リアルな輪郭を獲得していく。それこそが本著の醍醐味であろう。
もっとも、「母親」になることは、決して「後悔」だけではあるまい。子は自分が知る由もなかった世界を伝達してくれる稀有な存在でもある。行きつ戻りつの子の育ちによって、親も新たな価値観をインストールする。そして、自分の育ち方や自身の「母親」との関係性にも視点を広げ、開かれていく。それは、「母親」以前の人生に豊かさや奥行きを付与してくれることでもある。
最後に。家族の数だけ家族の築き方があるように、母性も正解はなく、母の数だけ存在する流動的なものだろう。だからこそ、誰かが決めた借り物の母性を取り込む必要などないはずだ。私たちはもっと自由になっていい。強くそう思える一冊だ。