傷つくのが怖い。いや、それ以上に身近な誰かを傷つけることはもっとハラハラする。朝のホームルームの時間に、あの子に余計なことを言っちゃった。思えば、あれから、しれっと無視されてる気がする。もちろん、こっちに悪意なんかない。けど、「空気が読めないヤツ」認定されたんじゃないか。最悪、LINEもブロックされるかも。せっかく頑張って、陽キャ一軍の「いつメン」になれたのに…。ボッチにされたらマジで詰む。やらかした?やっぱ、傷つけた?いや、ぶっちゃけ、こっちも、ガチで傷ついてる。
 心の柔らかいところで、「傷つけた」と「傷ついた」が振り子のようにぶんぶん揺れて、1時間目の小テストもやる気にならない。自暴自棄な気分に襲われて、ふと、英単語のhurtとheartって発音、似てるよな、傷つく場所って心だからか…とかどうでもいいことが浮かんでは消えていく。教室から見える空は悔しいくらい青いのに、心はヒリヒリ、痛みだす。どうしようの無限ループ。無力だ。気がつくと、ため息が漏れている。帰ったら親に相談してみようか?いや、どうせ「気にしすぎ」とか、「それより、テスト、どうだったの?」って逆に言われて、あっけなく終了かな。だったら余計立ち直れない。振り回したり、振り回されたり、人との距離感って難易度高い。心も因数分解みたいに、スッキリ解けたらいいのに。リアルな関係って、楽しいけど厄介でメンドイ。この気持ち、火曜日の可燃ゴミに出したい。秒で解決できたらラクなのに…。

 あなたは、冒頭のような気持ちに見舞われたことはありますか?他者と親密になりたいと願って、積極的に声をかけてみたものの、些細ささいなコミュニケーションの齟齬そごで傷ついてしまう。あるいは、互いの距離は縮まったけれど、なぜか傷つけあう結果になって、そっと心のシャッターを下ろす、そんな体験が。そんなとき、心は平穏ななぎではいられない。「近づきたい」けれど、「傷つきたくもない」という二つの心が同くらいの重さで宙ぶらりんにせめぎ合って、モヤモヤとザワザワの葛藤センサーが発動する。目に見えない心という箱舟に、相反するアンビバレントな感情がいくつも乗っかって、所在なく途方に暮れてしまう。どちらも同じくらい正常で大切な感情とはいえ、他者との距離感って、つくづく難しいものですよね。

「小さく傷つく」プロセスがもたらす意味

 私たちの日常は、家族や恋人、学校の友人や職場の人間関係など集団のはざまに存在し、そうした関係性に支えられて営まれています。たとえ、それが親子のように心理的に近しい他者との距離であっても、それぞれは別の人格であり、価値観や感受性、持ち味、また、抱えている役割や事情も異なるものです。もっとも、人は一人では生きられない不完全な存在ですし、未来を生きるうえでは誰もが初心者ですから、予期せぬ出来事に傷つくことは回避も排除もできないものでしょう。もっと言えば、自分自身もまた他者を傷つける加害性と無縁ではいられないのです。あなたの人生が唯一無二の大切な物語であるように、他者には他者の歴史があり、固有のストーリーを生きている。もっとも、過剰に外傷的な体験は別ですが、無傷のまま生き延びることは難しい。とはいえ、そもそも、傷というものは、果たしてムダでショートカットすべき体験なのでしょうか。逆説的なようですが、私たちは日々、「小さく傷つく」レッスンを重ねているからこそ、他者とのほどよい距離感を学んでいけるのかもしれません。傷つけたり、傷ついたりのプロセスを繰り返して、信頼できる相手とつながれる。同時に、他者の包容力や寛容性に癒される可能性もある。つまるところ、人間関係というものは、ときとして厄介なしがらみやくびきにもなり得るとともに、互恵的にケアしあう豊かさを秘めているのかもしれません。
 では、日々の「小さな傷つき」を修復するためには、どんな処方箋があるのか。もちろん、最適解はないのですが、皆さんと一緒に考えていけたらと思っています。

傷を修復しながら、ともに生きる

●心に絆創膏ばんそうこうを貼って応急処置を試みる
 まずは、「小さな傷つき」の声を無かったものにせず、あなたが安全で安心だと感じられる他者に話を聴いてもらってみてください。人の心というものは、不思議なくらい立体的で多面的で、そして複雑で不純なもの。あなたのそばに誰かが居てくれる。寄り添ってもらう。そうして、心の手当てをしてもらううちに、何らかのヒントが見つかって心の棚卸しができたり、余白が生まれると思います。他者にSOSを出して相談することは、傷口を傷のまま自己完結させず、つながりの結び目を増やし、ちょっぴり曇った心に柔らかな風を通すことだと私は信じています。
一匙ひとさじの勇気をもって対話してみる
 人間関係において、些細な勘違いや思い込みはつきもの。もし、これからもその相手と関係性を深めたいのならば、一匙の勇気をもって対話を試みてもよいかもしれません。確かに、対話って難しい。そんなときは、「私は○○だと思って、ぶっちゃけショックだったんだ。○○だったら助かったかも…」などの柔らかな言い方で自分の感情を伝えてみるのはいかがでしょうか。意外にも、相手からも素直で率直な本音が聴けて、互いの個性を面白がれたり、関係性を修復できる貴重なチャンスにもなるかもしれません。
●潔く、前向きに諦める
 時には自分の弱さやもろさを開示してみる。とはいえ、残念ながら、対話してもなお、分かり合えない他者も存在するでしょう。そんなときは、どうか自分を過度に責めずに、潔く、前向きに諦めてみてください。「諦める」の語源が「あきらむ」(物事のことわりを明らかにする)であるように、自分がどんなキャラの他者と相性が合うのか、また合いづらいのかという自己理解が深まり、自分のトリセツ作りに役立ってくれるかもしれません。
●小さく引きこもり、時間薬のお世話になる
 他者とのつながりを実感することはとても大事。けれども、それと同じくらい静かに心の内側をぼんやり眺めたり、推しに癒されたり、お一人様時間に心をクールダウンし充足させることも回復の大きな下支えになると思います。ときには、他者に求めた期待が、はたして妥当だったのかを再点検する時間にもなってくれるかもしれません。タイパやコスパと無縁な時間を一人で面白がる。あえて、速度を落として生きる。私はこれをこっそり、豊かなで自由な孤独と呼んでいます。
 ヒリヒリするような心の痛みは、あなたが懸命に誰かと向き合った証。傷をなくすのではなく、共に生きる。試行錯誤する。傷はつまづきのまま終わらず、心の器を広げていく原動力にもなる。小さな痛手や喪失を過度に恐れず、絶望せず、一人だけの孤立した世界に撤退しないで頂けたらと思います。傷ついたあなたの今日は、近しい他者との絆や成熟を再発見できる明日に、きっと繋がっていく、私はそう信じています。

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