ジャニー喜多川性加害問題はまだ皆さんの記憶には新しいと思います。そこに所属していた芸能人たちが過去に受けた性被害を次々に開示し、このことが大きな社会問題となりました。その影響もあってか、近年は過去に性被害、あるいは性虐待を受けたことをカミングアウトする人が増えてきています。
ジャニー喜多川性加害問題でも、それ以外の性被害、性虐待でもそうですが、被害からずいぶん月日が経った今になって、なぜ社会にそのことを曝露するのかと思われるでしょう。もしその被害の事実を言わなければ、このことは誰にも知られずに闇に葬られ、被害者自身もわざわざ嫌な過去を蒸し返らせなくても済んだかもしれないからです。
確かに、被害に遭っている最中や直後においては言い出しにくく、告白が後々になってしまうというのはわからなくもありません。特に、被害者の年齢が幼く、あるいは加害者にはとても力では及ばない弱い立場にある被害者の場合などは本当のことは自分の胸にしまい込むしかないのかもしれません。仮に自分の被害を訴えたところで、誰も新しい未来が開ける保証をしてくれないわけですから、そうせざるを得ないのも当然です。そうだとしても、なぜ今になってそれを告白するのでしょうか。その意図はどういうところにあるのでしょうか。
被害者としては、心に傷を持ちながらもそれなりに頑張って生きてきたとします。時にはそんな事実があったなんて周囲には気づかれず、社会的に成功を勝ち得たとします。しかし、彼らはどこか心に棘が刺さっているかのように感じるのです。歳を取れば取るほど、前に進めば進むほど、その棘が気になり、過去を振り向かせようとさせられます。これは自分で自分の存在そのものに引っかかりを感じ、自分そのものを肯定できない心理と言い換えてもいいかもしれません。その被害に遭ったことを葬り去って、新たな自分を生きたとしても、その人にとってはそんな自分が許せないのです。これは“恥”という感覚に近いと言えます。この感覚は他者から見られているという恥ずかしさでもありますが、それよりも自分自身の傷を痛々しくて見ておれず、そこから目を反らしてしまうという不甲斐なさといった感覚なのです。
それゆえ、性被害や性虐待を受けた人は自分の傷付きを隠したままではいつまで経っても自分を肯定できずに生きなければならないところがあります。いつもチクチクする心の棘を取らないことには、恥という感覚を払拭できないのです。それゆえに、仮にカミングアウトしてさらなる傷付きを体験したとしても、被害の事実を表に出して本当の自分に向き合えることを選択しようとするのです。
ただ、この選択をするまでには被害者はどれほど苦悩し、長い道のりを歩んできたことでしょう。刺さっている棘がチクチクどころではなく、心臓まで突き刺さって流血することもあったでしょう。しかもそれを誰にも言えず、自分を許せないという恥の感覚を伴いながら生きていくことの辛さは想像を絶するものと言えるでしょう。
性被害の被害者の心理はまだまだ一般の方には理解されていないところがあります。時には被害者が誹謗中傷を受けて、二次被害、三次被害へと傷が拡大することも少なくありません。社会が被害者のことをもっと理解していくことが支援につながります。