恥と自己愛はオモテウラ

 「恥」は、「自己愛」と表裏一体の関係にあると言われます。精神分析家フランシス・ブルーチェクは、恥は「小さな子どもが、楽しんで人と関わっていたときに、相手から望んでいた反応が得られなかったことへの失望」であると言っています。私たちは、夢中で何かにのめりこんでいるときに、自分が世界と一体となったかのような感覚を覚えます。しかし、次の瞬間には思い通りにならない現実にぶつかって、自分が世界からはじき出されたような感覚を覚えます。「自分はすごい」という誇大な感覚と、「自分はなんてだめなんだ」という情けない感覚を、往復運動のように経験したことが、誰しもあるのではないでしょうか。
 前者のような夢中の一体感や万能感は、ある種の自己愛的な体験です。小さな子どもは、自分が作った作品を大人が見てくれないと、「なんで見てくれないの!?」と本気で傷つき、怒ります。他者が自分を見てくれることは当たり前だ、という一体感や万能感を小さなころにたくさん味わうことで、私たちは自分の感覚を信頼し、世界と関わることができるようになります。
 そして後者のはじき出されたような失望の感覚は、恥の原型のようなものです。周囲から願っていたような反応が得られないとき、私たちは心の内側で傷つき、自分がバラバラになったような感覚を覚えます。しかし、そうした痛みを通り抜けることで、私たちは世界は自分の思い通りにならないことを知り、自分と他者は違う存在なのだということを学びます。恥と自己愛の往復運動は、成長における必須通過ルートともいえるかもしれません。

「恥」からの逃走

 恥の体験は、とても痛くて辛いので、私たちはその痛みを避けるために色々なことをします。「自分は本当はすごいんだ」「本気出したらやれるんだ」と自己愛的な空想をすることによって、心の内側でこっそり自分をなだめたりもします。もしくは、もうはじめから「自分は何もやれない人間なのだ」と構えてしまうこともあります。「やれるかも」と自分に本気で期待をした瞬間から「できるわけがないだろう」という恥の感覚に襲われてしまうので、自己愛的な期待を自分の中から追い出してしまうような心の動きです。
 自分の自己愛を素直に表現しながら、現実に真正面から向き合うことは、当たり前のことのようで、実はとても難しいことのようです。

「恥」は恥ずかしいか

 恥の体験というのは、隠されやすく、人と共有されにくい体験です。しかし、「恥」の体験の周辺には、その人が本当に願っている、人間らしい期待や願望があるとも言えます。恥の研究で著名な精神分析家アンドリュー・モリソンは、恥をめぐる心の治療に関わる際は、セラピスト自身も、自分の中の失敗や欠点、そしてその裏側にある野心や期待を、進んで認めていくことが大切だと論じています。
 恥を感じることは、恥ずかしいことではありません。そして、世界との一体感や万能感を求めることも、野心や理想を心のうちに持つことも恥ずかしいことではありません。落ち着いて堂々として見えるあの人やこの人も、かつては恥と自己愛の間で往復運動をしていたのかもしれません(もしかすると今も心の中で続けているかもしれません)。
 そのように考えると、「恥」はみんな心の中にあるものですし、「恥」の体験を打ち明けること、分かち合うこと自体が、本当の人とのつながりを生む可能性さえあるような気がしてきます。

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