母の朝は早い。まだ薄暗い空が、昨日と今日との境目で、互いの別れを惜しむような午前4時。母はもそもそと布団から起き上がって、台所で出汁をとる。そして、誰とはなく忙しい忙しいと呟きながら、鯵だの鮭だのの干物を焼いて、せかせかと兄の弁当を作り始める。私が見慣れた毎朝のルーティン。やがて、調子が外れた鼻歌に混じって味噌汁の匂いが立ち込めたら、お呼びがかかるのをじっと待つ。彼女は疲れた表情で椅子に座り、食べ始めた黒糖蒸しパンのかけらを、口元にそっと差し出てくれる。私にとっての至福で口福な、うっとりとするひととき。そして、「これが『母子の一体感』だよねぇ」と目尻に皺を寄せて柔らかく語りかけるけれど、私には意味なんて分からない。言葉で繋がらない私たち二人の世界。でも、それでいい。無条件に愛されている。いま、生きている。確かにそう感じる。
外が明るみ始めたころ、気忙しい日常が広がる。母は尖った声で兄を起こしてから、私と散歩に出かけ、それから、「ガッコウ」というところへ出かけていく。「いい子いい子でお留守番だよ」と念を押されたから、おそらく「番犬」として我が家の治安を任されたのだろう。だから、滅法気は抜けなくて、狭いマンションの室内を無闇にパトロールしては、ベランダの柵に止まるカラスに吠えてみる。これが自分のミッションとはいえ、やっぱり暇だ。あくびを数回繰り返して、今朝の母と兄の小さな諍いを反芻してため息をつく。幸福の閾値が低く笑い上戸な母と、物静かで安寧を愛する父と、思春期で気まぐれな風来坊の兄との共同生活。不平不満がないといったら嘘になるけど、犬友のスイレン君やローズちゃんより幸せだと信じている。もっとも、幸せがなんなのか、どんな姿かたちをしているのか見たことはないけれど。そんな意味があるようで全くないことを、徒然と物思っては、うつらうつらと船をこいで家族の帰りを待つ。私に課せられたお留守番の数時間。母が帰って、ふたたび私に母性を注いでくれるまでの一日は、たいそう長い。

彼女の名は山根アンズ。こんがりした油揚げのような色合いの柔らかい被毛と、左右に小首をかしげて、主を見つめる姿が魅力的な1歳のトイプードルです。性格は自由奔放でお転婆ながら、外の世界では「キャラ変」する繊細な犬見知り。彼女が散歩をする姿は、さながら人間ウォッチングのよう。3歩歩いては左の前足をあげて一時停止し、前後左右を挙動不審にキョロキョロ…。道中、それを飽きるまで繰り返すので、ちっとも前に進みません。正直、散歩する気、あるんかい?というツッコミを喉元で飲み込むのは、この景色にどこかデジャヴ感があるからかもしれません。当時、まだ幼かった息子も保育園からの帰り道、寄り道ばかりで帰路につかず、堪え性なく足早に急かしてしまったなぁ。晩御飯の準備やら洗濯やら日常の些事に追われずに、あの瞬間をもっと慈しめていたら…。散歩とはいえ、主には一抹の甘酸っぱさが込みあげ、辛口な自己採点を味わう一人反省会にもなるのです。
ともあれ、我が家で犬をお迎えするのは初めてだったので、賑やかな日々の始まりを想定していましたが、それは想像を遥かに超えて、心を揺さぶるドラマチックな日々の幕開けとなったのです。

アンズが我が家の環境にも慣れた生後8か月の明け方。彼女は苦しそうに舌を出して震え出し、浅い呼吸を繰り返してグッタリと床にうずくまりました。素人目にも具合が悪いことは明らかだったので、高まる動悸を抑え病院に連れていったところ、獣医の先生から告げられた診断名は『子宮蓄膿症、子宮破裂と敗血症』。詳しいことはわからないのですが、子宮全体に膿が溜まり、一刻も早く摘出して輸血をする必要があるとのことです。術後死も5割強とされる緊急手術。同意書に署名をする手が震えます。ドラマのシーンさながら先生の手を強く握り、涙ながらに頭を下げる日が、まさかこれほど早く訪れるとは…。あの子はもう帰ってこないかもしれない。先生に抱っこされ、弱々しくオペ室に向かう背中を見送ると、恐怖や混乱、寄る辺のない心許なさが込み上げて、奇妙なほどしんと頭が冴えわたります。『対象喪失』、『喪失のプロセス』などという昔に習った用語が頭に浮かぶものの、激しい情緒に圧倒されて、心を自由に感じられません。
正直、その後のことはあまり記憶にないのですが、長時間に及ぶ大手術は無事に成功。先生や看護師の方々の献身的な治療とケアに支えられて、彼女は辛うじて一命をとりとめたのです。そして、1週間の入院生活を経たのち、緩やかに快方に向かっていきました。とはいえ、当面は点滴が必要なので、二人三脚での通院生活が始まったのですが、そこではコンパニオンアニマルを人生の大切な相棒として尊び、ともに寄り添って生きる様々なご家族との邂逅に恵まれました。
病院の待合室では、主が我が子をケージに入れて抱きかかえるように付き添っています。どちらともなく、「あら、どうされたんですか」「実はね…」。日々、そんな世間話をするうちに、老犬のトイプードルが癌に罹患して食事が摂れず、胃ろう状態にあり胸が潰れる思いでいること。また、今から20年前にニシキマゲクビガメとともに北海道から上京したものの、ここ最近、ガンが見つかり栄養チューブが外せない闘病生活を遣る瀬無い思いで見守っていること。溺愛するインコのピーちゃんが無精卵を産み続けることから、体力を消耗しないようにプラスチック製の偽卵を入れて、心を砕いていること。夜行性で臆病な性格のハリネズミのために、針が寝ている夜間にスキンシップをとって愛着関係を作っている話など様々なエピソードを教えて頂きました。我が子の病状は違えど、そこには、相棒の治癒を願って最期まで懸命にケアする人たちと、主の愛情を受け取って生き長らえようと健闘する逞しい生きものたちの姿がありました。
さて、本日も散歩の道中、安定のマイペースぶりを遺憾なく発揮するアンズさん。嘘のような人智を超えた本当の話ですが、退院後、輸血を頂いた大型犬・ロン君の茶色い剛毛が突如生えてきたのです。
彼から頂いた尊い命の糧。今日があって、明日が来る。ただそこに、ともに在ること。一風変わった手触りの彼女の温かな背中を撫でるとき、当たり前のようで有り難い日常が、確かにそこにあるものと感じられるのです。