密室から社会へ

 カウンセリングや心理療法(以下、カウンセリングと総称)は、面接室という密室において、来談したクライエントのプライバシーを厳格に守って行わます。そこでどんなやりとりがあり、どんなドラマが繰り広げられているのかが広く外部に知られることはありません。面接室の中で起きていることは、基本的に専門家以外の一般社会には厳格に閉ざされています。
 相談の秘密を守ることは職業倫理上の重要な要請ですから、それも当然のことです。しかしそれだけでは不都合なことも生じてきます。人はどんな苦悩を抱えて相談に訪れるのか、人は苦悩を通してどのように成長していくのか、その過程を支える両者の協働作業や心の交流はどのようなものなのか。こうしたことは、さまざまな意味で広く一般の人に知ってもらう必要があることです。
 というのも、こうしたことを知ることが助けになる人がたくさんいるはずだからです。また、個人の苦悩は、個人だけに原因があるわけではありません。その個人が所属する社会や組織のあり方が、そこに属する人々に生きづらさをもたらしていることもあります。カウンセラーには、面接室で聞き取った切実な訴えを面接室内に埋もれさせてしまわず、社会や組織に向けたメッセージとして発していくことが求められています。こうした情報発信はアドボカシーと呼ばれるカウンセラーの職業的役割の一つなのです。

事例小説

 とはいえ、クライエントのプライバシーを守りながら、カウンセリングで起きていることをリアルに伝えるにはどうしたらいいのでしょうか?
 その問いに対する私なりの答えが事例小説です。事例報告でも事例研究でもなく、事例小説。カウンセラーが経験に基づき、事例を戧作して小説として作品化するのです。このアイデアは『12人のカウンセラーが語る12の物語』(ミネルヴァ書房、二〇一〇)という書籍において実現されました。この書籍では、一二人の経験豊かなカウンセラーが、一人称小説の形式で、カウンセリングの経過を語っています。これらはすべてフィクションであり、読み物として面白く読めるものです。しかしそれでいて、この書籍は、カウンセリングについて、並の概説書や啓発書以上に、力強く豊かにその本質を伝えるものとなっています。そのコンセプトが革新的すぎたせいか、刊行されて一〇年以上、期待したほどの話題にもならず、売れ行きもパッとしませんでしたが、私はとてもいい本だと思っています。
 カウンセラーは、みんなもっと事例小説を書くべきです。事例をストーリーとして語り、小説として面白く読める、心を打つ作品として記述する作業は、カウンセラーとしての優れた訓練になると私は思います。現在の主流の心理臨床の風潮では、事例の記述は、客観的で科学的なデータの提示という文脈で考えられることが多いようです。そのような考え方の重要性を否定するつもりはありません。しかし、そのような考え方だけでは、カウンセリングにおける本質的な過程がうまく記述されないように思います。生き生きとした人間的交流を伝え、読者を引き込むように事例を記述する作業は、事例の経過を見ていくための新たな視点を与えてくれます。クライエントが体験している苦悩や、カウンセラーに対する期待と不安。そこに関与していくカウンセラーの迷い、不安、熱意や勇気。相互作用する両者の心の動きの機微を描き出し、ストーリーとして展開させる力は、カウンセラーの見立ての力や介入計画を構想する力と大いに関係していると思います。

マンガ

 心理臨床家の中には、専門家とそうでない人との間に明確な境界線を引き、一般の人向けにカウンセリングの手ほどきをすることを快く思わない人もいるようです。素人が中途半端な関わりをするのは危険だという考えからのようです。
 私の考えは異なります。心理臨床の基礎にある、他者の痛みを思いやりケアする気持ちや、そうした気持ちを体現する関わりは、専門家だけが心がければいいというような種類のものではないと思います。社会全体でそうした気持ちや関わりの質を高めていくことで、より生き心地のよい社会を作っていくことが大切だと思います。個人の心理的健康と社会の心理的健康は、互いに互いを必要とするものです。
 広く社会に何かを伝えるためには、多くの人にとって親しみやすく、気軽に読めるマンガは、とても効果的な媒体だと言えるでしょう。カウンセリングにおける「共感」を一般の方向けに解説した拙著『プロカウンセラーの共感の技術』(戧元社、二〇一五)にはマンガ版もあります。専門書とは違った意味で、こうした情報発信も心理職としてとても大事だと思います。

ホームページ

 私は、京都大学で学生相談をしています。現代社会においてはあらゆる社会的営みがそうであるように、学生相談においても、ネットでの情報発信は非常に重要な活動となっています。今やネットにおける有力なチャンネルはSNSや動画サイトに移行しているとはいえ、ホームページもまだまだ重要です。
 京都大学のカウンセリングルームのホームページでは、学生やその家族や教職員に向けてさまざまな啓発的情報を提供しています。その中に「留年について」というコンテンツがあります。このコンテンツは、留年した学生に向けた応援のメッセージと具体的なアドバイスを掲載したものですが、なぜか一般の方々に広く読まれています。二〇一六年の秋にはTwitter などで、「 救われる」「温かい」「生きづらさを感じる人に有効なアドバイス」などというコメントとともに爆発的に広められ、一時はYahoo ニュースにランキングされました。
 不特定多数に向けたこうした情報発信がどれだけの人をどれくらい助けているのかは分かりませんが、こうした情報発信の無数の響き合いが大きな社会のうねりを作り出し、巨視的で長期的な変化を方向づけているのだと思います。この社会で生きづらく感じている人たちの苦悩の声を聴く立場にいる私たちが、日々、社会に向けて発信していくことの意味は大きいと思います。

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