巻頭対談: 三秋 縋×葛西真記子
葛西 今回の対談を三秋先生にお願いした理由なんですが、「生きていく意味がわからない」と語っていた方が先生の本を読んで、「次の本が出るまでは生きていよう」言うようになったことがあって・・・。
三秋 はい。
葛西 その方に薦められて私も先生の作品を読み始めたんです。そうしたらすごく面白くて。人と人との関係や気持ちの繫がりというのがしっかりと描かれていて・・・。もともと先生はどういうきっかけで小説を書こうと思われたんですか?
三秋 そうですね。中学生の頃に時間を持て余していた時期があって、よく本屋で時間を潰していたんです。特に小説に関心があったわけではなかったんですが、あるときふと、「自分のように根暗な人間が小説を読まないのはおかしいんじゃないか」というふうに思って、適当に一冊手に取ってみたんです。たまたまそのときに読んだ本が、すごく自分と波長が合ったというか、ようやく自分と同じようなことを考えている人を見つけられたと思えるようなものだったんですね。悲観的な思考とか内向的な思考が作品として昇華できるものなんだということにすごく感激したというか。そのときから、小説を書くことを考え始めたんだと思います。
それまでは自分と似たような思考回路の持ち主にまったく出会えなくて、エイリアンみたいな感覚を常に覚えていたんです。ですがその本との出会いを通じて、ようやく「仲間を見つけた」と思えました。 葛西 だから小説の中に出てくる登上人物も、最初は周りの人と繋がりをあまり感じていなかったり、自分を受け入れてくれる人はいるのだろうかと悩んでいる人が出てきて、そうした人が誰かと出会う。誰かと出会って心が揺れるというところが描かれているのでしょうか? 三秋 僕が当時本から得た「ようやく仲間と出会えた」という感覚を、そのまま小説に書いているとも言えるかもしれませんね。
アイデアの出発点
葛西 先生の小説には日常じゃない話が出てきますよね。例えば、『スターティング・オーヴァー』は10年前に戻る話ですし、『3日間の幸福』は自分の寿命を買ってくれる人がいるという話です。でも私は読んでいて、もしかしたら私たちが知らないだけで、実際にこの世界にはそういう人もいたり、そういうことが実はあったりするのかなと思うんです。まったくのSFでもなくて、すごく日常というわけでもないところにとても惹かれます。
三秋 僕は物語を書く際に何か噓を一つだけ設定するようにしていて、その噓だけは僕と読者の共通のルールとしてお互い目をつむる、ということにしています。その噓の外側では、極力本当に現実に存在している人間が社会の中で生きている姿を書くようにしています。
三秋 『恋する寄生虫』はまさにそのような思考から生まれた話で、作中の人物に共通する性向──内向的で、どうしても他者とかかわり合うことを拒否してしまうような姿勢──を具体的な病気に、この作品では寄生虫という形にして全部その責任を押しつけられたら、それはすごく楽なことだろうなと思ったんですよね。 葛西 『君が電話をかけていた場所』や『僕が電話をかけていた場所』も、やっぱりあれも何かきっかけがあって出てきたのですか?
三秋 誰でも、自分の顔がもしもっと整っていたらとか、自分の背があと何センチ高かったらとかいう話をするじゃないですか。その欠点さえ改善されれば幸福になれるとでもいうように。でも実際にそうした欠点が取り除かれたとして、それだけで本当に幸せになれるのかなという疑問を常々感じていて。本質的な問題は得てして本人の意識の外にあるのではないかという発想からスタートした話ですね。
葛西 ああ、なるほど。美容整形を一回したら、もうずっと繰り返している人とかいますものね。クライエントさんの中にも、今はこの病気になっていて、これさえなくなれば、自分はもっといい学校に行けたのに、もっと幸せになれたのにという人がいます。 三秋 ある意味でそれは「救い」なんですよね。病名があることによって、対象を自分の根っこから切り離せるから。ある意味で慰めになるというか、責任を引き受けてもらえるようなところってありますよね。
葛西 そうですね。どんな病気かにもよるけれども、私もクライエントの話を聞いていて、「その病気が完全になくなることはないかもしれないな」と思いながら、だからこそ、この人が生きていくためには、その病気を受け入れたり、どうやって付き合っていくかを考えたり、そういう方向に行かないとたぶん難しいだろうなと思ったりすることもあります。
葛西 そういう設定や次はこういう物語を書こうというアイデアは、どこから出てくるんですか?
三秋 自分の中にある切実な不安や願望といったものが基盤になっています。何気ない生活を送る中で、自分はこの種の感情にすごく執着しているなと気づいたときなんかに、アイデアに繫がる場合が多いですね。これは色んな場所で話していることなんですが、僕が『三日間の幸福』の根幹となる着想を得たのは22歳のときでした。周りの人たちが就職を決めている中、自分だけは就活すらしていないような状況だったんです。ある日、友達と一緒に公園でビールを飲みながら、「どうせなら太く短く生きたい」みたいな話をしていたんですけど、そのときふと思ったんですね。自分みたいなどうしようもない人生を送っている人間が、寿命の半分を売り払ったところで大した値はつかないんじゃないか、むしろ処分料を請求されるんじゃないか、と。その考えの皮肉な部分が気に入って、物語にしてみようと思ったんです。
葛西 ああ、そうなんですか。
三秋 それが出発点でしたね。一方で、その寄生虫がいなくなったら、うまく社会に溶け込んでいって幸せになれるかというと、多分そうでもない。僕自身の過去を振り返ってみると、そういった悲観的な傾向は、僕のことを救っていたように思えるんですよ。それによって、一番致命的な打撃だけは避けることができたというか。
葛西 うん、うん、うん。
三秋 そう考えると、おそらくその虫が消えてしまったら、逆に本人たちは困ることになるのではないか、という逆説に面白味を感じて、あの話ができました。
「死」と「記憶」
葛西 先生は他の方の作品もよく読まれると思うんですけど、『100万回生きたねこ』ってご存知でしょうか?
三秋 はい、僕も大好きな本です。
葛西 私はあの本を読んだときに、主人公のねこが99万9999回生き返ったあとに白ねこと出会って・・・というところで、出会って自分がその白ねこのことを好きになって、そのねこと一緒にいるだけで幸せだなと。だからもう生き返らなくてもいいと考えたと思うんですけど・・・。
三秋 僕は『100万回生きたねこ』の話になったときは必ずこれをたずねるようにしているんですが、なぜねこは、次は生き返らなかったのだと思いますか?
葛西 私が思ったのは、次に生き返っても、もう白ねこはこの世にいないので、もう白ねこと過ごしたこと、それだけ十分だと思ったのかなと感じたんですけど。
三秋 じゃあ逆に、それまでは満足していなかった?
葛西 そうそう、そうですね。
三秋 僕はこの話についてちょっと独特の意見を持っているんですが、主人公のねこは自分が死ぬたびに、飼い主たちが悲しんだりすることをすごく不思議がっているようなところがあったと思うんですよ。 葛西 ああ、なるほど。
三秋 でも、いざ自分の愛した白ねこが死んだのを見たときに、「ああ、誰かに死なれるっていやなことなんだな」と気づいたんじゃないでしょうか。そこで初めてねこは、「じゃあ自分も死ぬのはこれで最後にしよう」と思ったのかなと。 葛西 自分が死んだときに、周りの人が悲しむということをわかっていなかった?
三秋 それをようやく理解できたと。
葛西 ああー。
三秋 誤読かもしれないですけど(笑)。
葛西 いやいや。確かに自分が誰かがいなくなって悲しいという体験をしないと、わからないですよね。 三秋 そういう視点を得たことが、ねこが生き返らなかった理由なのかなって。僕は、最初からずっとそう思っていて、他人の解釈を耳にすると、毎回驚くんですよね。
葛西 「死ぬこと」というと、先生の小説の中にキルケゴールの話が出てきたりしますね?
三秋 「死に至る病」ですね。「死に至る病とは絶望のことである」。
葛西 絶望というのは、人にとってはもうこれ以上、生きていけないということなのかなと?
三秋 人が絶望したとき「死」は消去法的にものすごく魅力的になっちゃうんじゃないか、とは思います。 葛西 死を選んじゃうというのは、絶望したけれども、また次頑張ろうというふうになるより、もうその絶望が大きければ大きいほど、次が見えなくなって死を選ぶという感じでしょうか?
三秋 絶望というのは基本的に立ち上がれるものではなくて、文字通り「絶えて」いると思うんですね。そうなったとき、たとえば自分みたいな信仰のない唯物論者は、救いというものをポジティヴなものの中には見出せなくなるんです。そのとき唯一救いとなるのは、誰でも最終的には死ぬし、そこに至る過程はどうあれ、結局は同じ場所に行くということです。それって、ある意味ではものすごく公平で、安心できることだと思うんですよ。死を理不尽な怪物と考えるのではなくて、万人に平等に与えられる安息と捉えると、「死」というものがある種の救済になるんですよね。
葛西 それは確かにそうですよね。
三秋 人にとって、もし公平な瞬間があるとしたら、生まれる前と死んだ後だけなので。
葛西 確かに「死」に対しては、どんなにお金持ちだったり成功していても同じですしね。先生の書く物語には「記憶」もキーワードみたいに出てきますけれども、人間はやっぱり嫌なこととか悲しいこととかを忘れられるから生きていけますよね。過去の失敗とか失恋とか、ずっとありありと覚えていると生きていけないですし。
三秋 「忘却」もまた「死」と同じように、ある種の救いだなと思っていて。『夢が覚めるまで』や『君の話』を書く前に、記憶に関する本を読み漁ったのですが、その中に過去を一切忘れることのできない病について書かれたものがあったんです。やっぱりそういう人たちは、例外なく苦しんでいたんですよ。人生の一番悲しい瞬間というのを、本当に今起きているかのように目の前にありありと思い出すことができて、絶えずそういった悲しみにつきまとわれている。何もかもを覚えていられるとして、必ずしもいいことばかりではないはずですよね。
葛西 そうですね。トラウマなどを体験した人は、フラッシュバックといって、本当にありありとそのことを思い出すというか、そういう体験があって精神的にすごくしんどいですし。しかも体験が強烈であればあるほど、忘れられないですしね。そうしたことに対するカウンセリングがあって、完全に忘れることはできないけれども、少しずつ自分を納得させていくというか。例えば、子どもの頃に何かあったとしても、今の自分はもう大人だし、もし同じようなことが起こっても何か違う対処ができるはずだと。何回も思い出すんだけれども、そのことを自分の中で思っているのではなくて誰かに話すとか、そういうことによって、少しずつでも忘れたり、自分で何とかして生きていけるようになるのかなと思いますね。
三秋 その記憶を自分の受け入れやすい形に組み直す、つまり「リフレーミング(reframing )」することが、僕は何より大事だなと思っています。最近聞いて面白いと思ったのが、僕の小説を読んだあと、孤独や悲しみといったものをまるで肯定的な感情のように錯覚する、空しい人生を送れば送るほど、自分が物語の主人公であるかのように思えるという感想を目にしたんです。これはまさに僕の小説を通じて、孤独の受け入れ方だとか、ネガティヴな記憶の捉え方がポジティヴな方向に変わったのかなと思って。僕の本が一種のリフレーミング装置みたいなものとして機能したのかもしれません。
葛西 カウンセリングの中でも、自分の記憶を話しているうちに、すごく悲惨な体験だったことは間違いないんですけど、でも実はそこに誰か自分を助けてくれる人がいたとか、実はあのとき周りはみんな自分のことを嫌っていたわけではなかったなみたいな、新たな視点が出てきたりとか、そういうことがあるので。やっぱり語り直すというか、語り直しながら自分の中で自分の人生が塗り
替えられていくということはありますね。
三秋 ある程度までは、記憶って自分の好きな形に変えられるというか、そもそも絶対的な過去というものは存在していなくて、記憶という解釈だけが存在しているというか・・・。
葛西 そうですね。忘れられるし、形を変えられるみたいなことはあると思います。
三秋 僕はある時期までは日記をつけていたんですけれども、それを読み返すと、自分が想像よりもずっと多くを忘れていることに本当にびっくりするんですよね。こんなに重大なことがあったのに忘れてしまったのかと。人間の脳というのは本当に都合良くできているなと思いましたね。
若者が置かれている世界
葛西 この雑誌はカウンセラーや心理の専門家、またはそうした職業を目指している人が主な読者なんですが、彼らに何か伝えたいことってありますか?
三秋 僕などより専門家の方々のほうがよほど深く考えていることは承知の上で、強いて言えば・・・最近不登校をしている人に「逃げてもいいんだよ」と促す人が増えてきているじゃないですか。
葛西 ああ、ありますね。
三秋 それ自体は確かに良いことだと思うんです。ただ、僕自身も学校はあまり好きなほうではなかったのですが、自分から休んだことは一度もなかったんですね。というのも、立派な心がけをしていたとかそういうわけではなくて、たぶん自分は一度でも逃げたら二度と戦えない、一度でも折れたら二度と立ち直れなくなるタイプだったので、絶対に折れるわけにはいかなかったんです。だから病気以外では、一度も学校を休んだことはありませんでした。
世の中には僕のように、折れにくいけれども、折れたら二度と立ち直れない人もいて、そういう人を安易に逃げさせてしまうと、プライドが折れてしまって二度と立ち直れないというようなこともあり得ると思うんですよね。
だから、本当に不登校に関してはケース・バイ・ケースで、一概にこうと決めつけるべきではないなとは思っています。
葛西 本当にそうですね。不登校もいじめもそうですが、本当に一人一人違うし、どういう状況かによりますね。ただ、やっぱりいじめからの自殺とか、死にたいと思っている人は何とか止めたいとは思うんですけどね。先生の小説の中にもいじめを受けている人が出てきたりしますが、そういう状況を理解してくれる人が周囲にいたり、そのことを誰かに言えたりするとすごく違うんだろうなと思います。単に「いじめられたら学校へ行かなくていいよ」という話ではなくて。
三秋 そうなんです。本当に人によりけりというか。一番間違った選択肢が正解ということも、人によってはあり得ると思うんです。
葛西 今ってすごく便利な世の中になって、いろんな人とすぐにSNSで繫がったりするけれども、でも、みんな何かちょっと孤独だったり寂しかったり、そういうことを思ったりもしますよね。
三秋 そうですね。繫がれる可能性が増えたことで、逆に誰とも繫がれていない状態というのがものすごく鮮明になっちゃったということもあると思うんですよね。
葛西 高校生でも常に携帯を見ていたり、誰からもLINEとかそういうものが来ないとすごく恐怖だったり、すぐに返事をしないと仲間外れにされちゃうとか。もしくは自分が知らないところで、クラスのほかの人が繫がっていて、実は遊びに行っていたとか。そういうことを写真がアップされて間接的に知るということがありますね。
三秋 でも一長一短だと思いますね。顔も知らない人を相手にコミュニケーションすることもできるようになったので、そこに救いを見出している人も一方では結構いると思うので。
葛西 例えば私は今、セクシュアル・マイノリティの人のカウンセリングをする機会が増えているんですが、自分の学校の中に、自分と同じような人がいるのかわからないし、カミングアウトしている人が少ないので、それでやっぱり中高生の人とかは死にたいと思ったり、自殺未遂をしたりする率がすごく高いんですね。
そういう人がネットでもいいので知り合いができたり、自分と同じようなレズビアンやゲイの人がこんな仕事をしているとか、こんなところにいるというのがわかるだけで、その人の人生のモデルになったり、もしくは実際に知り合えたり、こういうことはすごくネットが使えるようになってよかったことに思うんですね。
三秋 僕自身は中学生ぐらいからネットを使い始めたんですけど、別の世界があるというか、自分が今住んでいるここだけが世界ではないという感覚に救われたので。
葛西 学校にいるときは学校だけがすべてと思っちゃってたり、そこにある規範というか、そういうのがすべてみたいなに思いますが、学校で人気の人と、社会に出てから人気のある人とかは全然違ったりしますよね。
三秋 だから今の若い人たちや一〇代の人ってすごく冷静な人が多いですよね。初めから世界が広く見えているので。そういうところはうらやましいなと思っています。
葛西 それは、ここだけではないとわかっているからですね?
三秋 はい。一方で可哀想だなと思うのは、初めから自分が「すごくない」と思い知らされてしまうことですね。今ではネットを見れば、自分よりも若くて才能豊かな人がいくらでもいることが可視化されているので、井戸から放り出されてしまった蛙じゃないですが、誰もが誰かに劣等感を覚えずにはいられない状況に追い込まれているように思えます。
葛西 ああ、確かに。やっぱり一長一短ですね。
三秋 何かを始める段階では、ある種の視野の狭さも必要ですよね。自分の未熟さがまったく目に入らないうちに力をつけておかないといけない。目が肥える前に始めなければ、大抵の人は途中で自分を見限ってしまうんじゃないかなと。
「ものがたり」の効用
葛西 もう次の作品の構想は頭の中にある感じですか?
三秋 はい、すでに書き始めています。
葛西 ああ、そうなんですね!じゃあ、私に先生の本を勧めてくれた方にお伝えしておきますね(笑)。今日先生と話したこととか、その人に報告しようかなと思っているんですけど、そんなふうに言われるとちょっと責任を感じてしまいますか?
三秋 どうでしょう。僕は作家としての自分と現実の自分をある程度切り離して考えているので。
葛西 本当に?それはどうやって切り離すのですか。三秋縋という小説家と自分は別物・・・?
三秋 そう考えていますね。今この瞬間はどっちかと言われたら、八割ぐらい三秋縋でやっているのかなと思いますけど。
僕の場合、誰かに届けようと思って小説を書いているわけではなくて、一番辛かった頃の自分を救ってやりたいという思いが最大のモチベーションになっているんです。あのときこういう言葉をかけてほしかったとか、こういうことをしてほしかったという願いを作品に込めている。僕は作品を通じて誰かに救われてほしいとか、感動してほしいとか、そういうふうに思ったことはなくて、ただ、僕が僕自身を救おうとして書いたものを読んだ人が、間接的に、僕の知らないところで勝手に救われていたとすれば、それは素直にうれしいことだなと思えます。
葛西 先生の小説の登場人物がかける言葉って、すごくこう、何だろう、真実味を持っているというか、ああ、こういう言葉をそのときかけてくれる人がいたら本当にいいなと思えるようなシーンが多くて。
三秋 はい。ただ、現実には、みんなの前にそういう人が現れてくれることはめったにないかもしれないんですけど。
葛西 そうですね。うんうん。
三秋 相当珍しいことではあるんですけど、ただ、そういうときの心の動きというものを厳密にシミュレートして、そういう心の動きを文章を通じてたどっていくうちに、自分の心の救い方がわかってくる・・・そういう効能はあるのではないかと思います。
葛西 うんうん、なるほど、そうか、そういうことですね。先生にしたら誰かを救おうと思って書くと、ちょっと違ってきますね?
三秋 そうですね。逆に気負いすぎて、読者も自分も救えなくなるかもしれませんね(笑)。
三秋縋(みあき・すがる)
一九九〇年生まれ。岩手県出身。二〇一三年『スターティング・オーヴァー』でデビュー。主な著作に『三日間の幸福』『いたいのいたいの、とんでゆけ』『君が電話をかけていた場所』『僕が電話をかけていた場所』『 恋する寄生』』( いずれもKADOKAWA/メディアワークス文庫)『君の話』(早川書房)などがある。
葛西真記子(かさい・まきこ)
大阪大学大学院人間科学研究科博士課程(前期)修了、University of Missouri, Columbiaカウンセリング心理学博士課程修了(PhD)。現在、鳴門教育大学大学院心理臨床コース教授、SAG徳島(徳島県のセクシュアル・マイノリティ活動団体)代表。臨床心理士・公認心理師。