ある講習会でのこと。クライエントが「みんなから浮いているのがとても辛く、もう死んだほうが楽かなと思う。でも、この気持ちは秘密にしてほしい。信頼している先生だからやっと話せた」とカウンセラーに語った際、どう対応するか検討するグループワークがありました。話し合いの中で、「まず、話してくれたことをねぎらう」「クライエントのしんどさに寄り添う」「死にたい気持ちの強さにつ
いてアセスメントし、その程度が強い場合は、できるだけ本人の了解を得て学校に伝える」という方向に話は纏まっていきました。

 この話し合いや結論に問題があると言いたいわけではありません。こうした状況にどう対応するかの基本を確認しておくことは大切なことです。そうは思いつつも、私は、違和感を覚えていました。これが、どう対応・介入すべきか正答のある問題のように感じられたからです。けれども、このようなクライエントを目前にしたとき、例えば「話してくれてありがとう」と伝えることがいつも妥当だとは限
らないでしょう。
 面接において、とても大事なことは、セラピストとクライエントの関係性という軸のもと、「今の状況において、クライエントがセラピストに、この話題を語ることの意味」を念頭に置きつつ、クライエントの語りを聴いていくことです。そして、座学や書物による学びだけではこれを実際に運用する能力は身につきません。しばしば身を削る思いをして、スーパービジョンを受けたり事例検討会で発表したりすることが心理臨床のトレーニングにおいて大切である所以です。
 私の敬愛する作家、橋本治は「正義」について次のように書きました。


 正解をいくら並べ立ててもしょうがないのは、それが所詮「乾き物の正義」でしかないマニュアルだからで、そうならないためにも、人は時々「正義」についてを考えて、身をシェイプアップする必要があるのだと、私は思う。

「生物の正義と乾き物の正義」(中央公論二〇一二年八月号)

 この「正義」を「臨床に」読み替えたところに、心理臨床の実相があるのだと、私は思うのです。

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