当事者研究がブームです。多くの本が出版され、さまざまなイベントが開催されています。たくさんの人を巻き込み、加熱しています。だけど、私たち心理士は基本的に当事者研究に対して静観の構えをとってきたと思います。少なくとも私はそうでした。この業界には次々と新しい援助法が登場しては退場していくのだから、当事者研究についても様子見でいこう、そんな感じでした。

 

しかし、最近になって気が付きました。当事者研究は過去に流行し、その後沈静化していった諸々の援助法とは全く違います。それは「効果が桁違いだ」という煽り気味の話では全然ありません。そうではなく、当事者研究はこれまで私たちが前提としていた文脈とは異なる文脈から登場し、しかもその文脈は現在進行しているメンタルヘルス業界の歴史的で社会的な地殻変動と深く関わっています。そう、当事者研究とは精神分析や認知行動療法、家族療法などと並列する援助法の一つではなく、そもそも「援助とは何か」という問いの根底を組み替えようとするある種の文化運動なのです。そういうことに気が付いてしまい、これは心理士にとって切実な話だと焦ってしまったので、以下でこのことを同業の皆さまとシェアしたいと思います。

 当事者研究を手っ取り早く把握するには、雑誌『臨床心理学』の増刊号「みんなの当事者研究」と「当事者研究と専門知」をざっと読むのがいいでしょう。包括的に全体を見渡すことができます。だけど、そんな暇はないかもしれないから、強引に要約するなら、野口( 二〇一八) の一文が分かりやすいでしょう。
 「精神の病を抱える当事者たちが自分の抱える問題を自分で研究する。自分の問題を仲間の前で発表し、参加者全員でその問題の仕組みや対応策について考え実践する。このような活動が『当事者研究』である」。

 そう、北海道にある精神障害者のグループホーム浦河べてるの家で始まったこの実践では、水を飲みすぎるとか、怒りの爆発が抑えられないなどの問題を、当事者本人が「研究」します。しかも、当事者同士で「ともに」研究します。とてもシンプルなものです。

 自分の問題を自分で研究する。こう書くと、もしかしたら「面接でいつもそれをやっています。クライエントが自分のことを考えるのを助けるんです」とか「フロイトやユングだって、自分の問題を自分で研究していましたよ」と思うかもしれません。確かにそうです。主観的にしか存在しない心というものの性質上、心の援助法とか理論は本質的に「自分で自分の問題を研究する」という構造から生み出されるしかありません。しかし、実はこのロジックでは「当事者研究」の切実さを捉えきれていません。そうではないのです。それを捉えるために、当事者研究がいかなる文脈からもたらされたものなのかを見る必要があります。
 熊谷( 二〇一八) は当事者研究が身体障害者による当事者運動と自助グループの二つの系譜が合流するところに成立したと書いています。前者はたとえば脳性まひのような身体障害をもった当事者が、生活をしていくうえで自分に必要な支援は自分で決めるという立場の元になされた運動であり、後者はアルコールや薬物の依存症者が回復のために、自分たちで集まり、自分たちで語り合うという実践のことを指します。この二つはその内実としても、方向性としても大きく異なるものですが、実は共通している点があります。これらは専門家の世界の外側で、専門家に抗して行われたものなのです。当事者運動は、支援やサービスのありかたを専門家が決めるということに抗して行われたものであり、自助グループは専門家による援助の限界を前に、当事者たちが自分たちで生き延びるために始めたものなのです。

 当事者研究が心理士にとって切実である理由はここにあります。当事者研究は専門家の世界の外部から立ち現れ、専門性なるものに対峙します。問題とは何か、どうなるのが良いのか、そしてそのための対処法とは何か、病理・健康・治療という専門家が占有していた諸概念に対して当事者研究はオルタナティブを示そうとしています。

 しかも、重要なことは、そのような在り方が、私たちの社会の大きな地殻変動と同期していることです。石原( 二〇一八) は当事者研究の源流にアメリカにおける消費者運動があることを指摘しています。そう、制度や資本、そして専門職という権力に対して、ユーザーが自分の権利を主張し、行使するという民主的な政治的潮流が当事者研究の背景に存在しているのです。それは私たちが専門家ではなく一市民であるときには慣れ親しんだ政治的態度です。

 だから、私たちは当事者研究を自分たちの専門性の範疇で解釈して、矮小化してしまうわけにはいきません。それは専門性という枠組みそのものに対する揺り動かしなのであり、専門家が持つ権力性への挑戦なのです。このメンタルヘルスの民主化という政治性こそが当事者研究の革新性だと私は思います。

 実は昨今当事者研究は次のステージに突入しています。発達障害やひきこもりの当事者研究を経て、現在では「生きづらさ」や「非モテ」といった医学の範疇を超える問題においても、当事者研究が普及し始め、誰しもが当事者として立つ時代がやってきています。それだけではありません。熊谷( 二〇一八) が「ポスト制度化」という言葉で表現しているように、当事者たちのニーズが医療や教育といった様々な制度の中に取り入れられ、さらには制度設計そのものに当事者が深く関与することが始まっています。

 このことは当事者側にも新たな課題をもたらしているわけですが、同時に専門家たちにも新しい構えを要請しています。つまり、当事者との協働を前提にしてしか専門家が制度に居場所をもちえないという局面を迎えようとしているのです。病院の心理士が何をするのか、スクールカウンセラーはいかなる役割を担うのか、専門家は当事者と協働してサービスの在り方を創造していかないといけません( これをコプロダクションといいます) 。

 国家資格となった心理職は、さまざまなステークホルダーとの政治的交渉を重ねていかなければなりませんが、その中でも最重要な相手が当事者なのです。そのような流儀は、私たちにとってはまだ未知のものではないか、と私は思います。だから、まず当事者研究に触れることから始めましょう。そこに、次の時代の心理士にとって不可欠な感性が詰まっています。

●文献
石原孝二(二〇一八)『精神障害を哲学する ―分類から対話へ』東京大学出版会
熊谷晋一郎編(二〇一七)『臨床心理学増刊第9号 ―みんなの当事者研究』金剛出版
熊谷晋一郎編(二〇一八)『臨床心理学増刊第 号 ―当事者研究と専門知』金剛出版
野口裕二(二〇一八)『ナラティヴと共同性 ―自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』青土社

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