はじめに

 学会誌『心理臨床学』には、心理臨床学における多様な領域からの論文投稿が引きも切らずやってきます。学会誌の編集に携わるひとりとして、それらに目をとおすなかで感じたことを手がかりにして、表題について述べてみたいと思います。

研究倫理のこと

 第七期の編集委員会では、「カバーレター」をとおして投稿に際して研究倫理に関する宣誓を求めています。論文には通常、それぞれの研究テーマを論じるための調査や事例などが記述されていますが、それらが投稿者による過去の研究発表や論文と同一である場合には、投稿論文が完全な新規論文であることを説明とともに宣誓しなければなりません。また、所属機関などの研究倫理審査を受けたかどうかの説明も求めています。これら投稿に際しての倫理的配慮は、心理臨床学がなかんずく「人間の研究」であることにも深くかかわっています。心理臨床学では、人間の心理にかぎらず、その行動や思考、情動、人生すなわち生きた人間の活動全般が研究対象となっています。したがって、医学研究における倫理原則を定めたヘルシンキ宣言にみるように、そこには研究の対象となる人間の生命、健康、尊厳、自己決定権、プライバシーおよび個人情報の秘密などを守ることが研究者の責務として求められています。また、その具体については、『心理臨床学研究 論文執筆ガイド[2022年新訂版]』に「研究と投稿の倫理」と題して一章を割いて詳述されています。このように、心理臨床学においては、研究と投稿いずれにおいても厳格な倫理的配慮が必須になっています。

 こうした研究倫理は、論文に求められる客観性や科学性とは次元の異なるものです。客観性や科学性については専門書を読んだり授業に参加したりすることで学習されていきますが、研究倫理は学習によって身に着くというよりも当人の研究の姿勢に帰するものだということができます。つまり、研究倫理を身に着けるためには人格・人間性の涵養が必要になってくるわけです。近年、多重投稿やサラミ出版などの研究倫理違反が問題になるのは、一因としては論文の数で業績を計ろうとする学界の動向があるようにも思われますが、それ以上に心理臨床学の研究に真摯に向き合い、その成果を世に問おうとする研究者・投稿者の姿勢の弱化に起因しているのではないかと感じています。それはすぐさま教育の問題に直結することも忘れてはならないでしょう。根源にある「何のために論文を書くのか」という問いにたいして、業績の増加なり就職なり自己満足などといった現実的・自己中心的な目的ではなく、心理臨床学の研究成果を世に問い、この学問の発展に寄与するためという目的意識をごく自然に身に着けている、そのような人材育成が求められるべきでしょう。心理臨床学の論文は、それが生きた人間の行動全般を研究の対象にしていることからして、書き手の研究倫理に関する姿勢をあらわにするものだといえるでしょう。

科学性あるいは客観性と臨床性

 心理臨床学が冠する「心理臨床」ということばは、この学問が人間の「心理(活動)」の研究であること、そしてそこに「臨床」という実践があること、これらふたつが分かちがたく結びついていることを意味しています。すなわち、心理臨床学には研究と実践の不可分性という性質があるわけです。この性質は、もちろんのこと論文を書くことにも影響を与えています。どういうことかといいますと、この不可分性には、研究である以上はそこに科学性・客観性が必要である一方、実践である以上はそこに臨床性が必要であるという二律背反的な性質があり、心理臨床学の論文ではこの両者をどのように扱うのかがつねに問われることになるわけです。

 ここで臨床性について若干の説明を加えたいと思います。この世に生を受けた人間にとって逃れることのできない苦悩に四苦すなわち、生きること、老いること、病むこと、そして死に逝くことがあるというのは仏教の教え「生老病死」ですが、臨床の実践はこのすべてに亘って悩み苦しむひととかかわり合う専門活動だということができます。「臨床」の原意は「死の床に臨む」ですが、人間の根源的苦悩に臨むときに発動される心理臨床学の専門性を「臨床性 Clinicality」と表現することができます。このように表現するだけでたちまち、心理臨床の実践というものがいかに大変なことであるのかがわかるのではないでしょうか。現在では新生児集中治療室(NICU)から緩和ケアに至るほぼすべての人間の四苦にかかわる領域で専門家(臨床心理士)が実践活動を行っています。

 さて、心理臨床学の論文というとき、そこには科学性あるいは客観性と臨床性がともに反映されていなければなりません。しかし、この両者は二律背反の関係にあるために共存させることがきわめて困難なのです。臨床性が機能するとき、そこに当人の人間性がかかわってきますから、科学的・客観的な姿勢ではいられなくなるわけです。ここでわたしは思うのですが、生きた人間の活動全般をその研究の対象とするかぎりにおいては、こうした状況が生まれるのはいわずもがなではないでしょうか。心理臨床学の論文を書くということは、この二律背反性を生きることでもあるといえます。けれども、昨今の論文にふれて痛感するのは、二律背反性を生きようとして格闘したり葛藤したりしたものがきわめて少ないということです。それはいきおい科学性への偏重といえるようにも感じます。この意味では科学的な色彩を濃くしているといえるでしょう。はたしてそれで心理臨床学の論文といえるのだろうか、と思うのです。

 自然科学における科学性と心理臨床学におけるそれは、パラダイムからして異なるものです。生きた人間同士のかかわり合いから生まれる心理臨床学においては、自然科学の法則のようなものを見出すことはできないとわたしは考えています。そうではなくて、心理臨床学が開こうとする道は、ひとつの事例をとおして人間であることの真実にふれるという、人間的客観性とでもいえる世界ではないかと思うのです。それは、二律背反性を生きようとする葛藤に苦しむ道でもあるでしょう。心理臨床学の論文を書くということは、二律背反のいずれか一局に偏重するのではなく、葛藤に苦しみながら人間知を探究しようとすることなのだといえるでしょう。そこにこそ、心理臨床学であることの所以があるのではないでしょうか。

おわりに

 「論文を書くというのは命を削ることだ」。これはあるひとが生前、まだ30代のわたしに残してくれたことばです。当時のわたしには、このことばの意がさほど実感をもって伝わってきませんでしたが、その意をわたしなりに実感するいま、若いひとたちにこのことばを伝えておきたいと思います。

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