映画「天気の子」で、主人公の帆高が「神様」に向けてつぶやく言葉がある。
「これ以上、僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないで下さい。」
帆高は、大切な人々と共に過ごす日常を今のまま維持することを願い、それが奪われそうになっていることに対して抵抗する中で、この言葉をつぶやいた。自分の人生で重要なものは何かに気づき、それが存在する空間に何者にも立ち入られず、何も失われず、ただ、安寧の中に継続されることを望んだのである。
境界線に踏み込まれる苦しさ
臨床で出会うクライエントは、幼い頃から、家庭の内外で自身の安寧が脅かされる経験をしている。小さいうちであれば、それが「脅かされる経験」なのかどうかもわからず、そのうち、それが当たり前となる。何が安寧かを知らないまま、他者から見れば「非日常」とも思われる事態がその子にとっての「日常」になる。「脅かされる経験」は「他者から入り込まれるかのような経験」でもある。それらは、児童虐待防止法に記されているような「虐待」と定義されるものもあれば、非常にわかりにくいものもある。更に、それが続くと、自分と他者との間の境界線のようなものがあいまいになることがある。人の感情か自分の感情か、自分の考えなのか他の人の考えか、自分は何に困っているのか、はたまた困っていないのか、区別がつきにくくなる。そして、そもそも自分は何のために行動をしているかもわからないまま、なんだか苦しい感情だけは蓄積される。人権とは何か、プライバシーとは何か、というのは説明が難しいが、こんな風に苦しい感じがある時は、人権やプライバシーというものが保たれていない状態なのだろう。
人の境界線に踏み込むこと
ハラスメントというカタカナは、そのような苦しい感じを人に与える行為であり、他者との境界線を踏み越えて侵入する行為を表している。英単語をカタカナ表記にすると内実がうやむやになるという効果があるが、要は嫌がらせや暴力のことである。「暴力っていうほどではないのですが、モラハラ系っていうか、夫はそんな感じです」という妻達がいるが、夫の精神的暴力について精一杯気を遣って表現する際にも用いられる。クライエントが話す苦しさの「もと」は、多岐にわたる。両親が「○○大学以外の進学はあり得ない」という姿勢であったとか、母がずっと父や父方親戚の悪口を自分に言い続けてきたとか、入浴すると父親が脱衣所をうろつくとか、幼少期から兄や姉にばかにされ続けてきたとか、高校からの帰り道の住宅街で性器を出した男性が毎日隠れていたとか、夫が子どもに「あんなお母さんでお前は可哀想だ」と言うとか…。これらの行為は、明確に身体が傷つかなかったり、子ども同士で生じていたことだったりすると、世間的には暴力と判断されないこともある。ただし、クライエントと他者の関係性には権力や体力の差が存在し、その下方にいる者に対する尊重がなく、何らかの苦しさを与えて日常を脅かす行動だったのである。
踏み込まれ続けるとどうなるか
そのようにされたクライエントは、感情や対人関係の困難を抱えることがある。苦しいので、何かを感じたり考えたりしなくなったり、相手の言うなりになったりしてしのぐ。しかし、学校でも、就職しても、そしてついに結婚相手とも、過去の数々の人間関係を振り返ってみると、なぜかいつも自分が不利な立場に置かれ、気づいたら心許せる友達というものがいないということにもなる。「あなたのやりたいことは?」と聞かれても、わからない。または、表面的にはそれなりにこれまで上手くやってきてはいるが、何かに依存することがやめられない、ということもある。それらは、ゲーム、飲酒、食事、買い物、恋愛という行動であると、まだ世間的には許容範囲かもしれないが、ギャンブル、薬物、万引、性加害…となると、問題に思えてくる。それなりにやり過ごす、生き延びるためにそうした行為をしてきたとも言える。一般的には問題行為でも、「生存戦略」、「自己治療」としての依存行為であるという捉え方もある。
臨床心理士は何をするのか
苦しい状況にあるクライエントにどのように接するのか。まず、何に困っているのかを確認していく。「困っている」という言葉では表現されないかもしれない。「すごくたくさん食べてしまう」、「結婚して実家を離れて長いのに、母が未だに頻繁かつ大量に物を送ってくる」、「夫が在宅で仕事をするようになってから私の体調が悪い」、「会社で以前より仕事がはかどらない」等の訴えの背景に、母子、夫婦、上司―部下といった関係性における、境界線への侵入行為、そのことによる苦しさが隠れている可能性を推測する。
今の課題が見えたら、それがクライエントの考え、感情、行動、人間関係の持ち方にどのような影響や不自由さを与えているのかを見ていき、その関係で生じている行動の習慣をどのように変えたら少しでも楽になるかを模索するのである。相手と物理的・精神的距離を取る方策を考えることも役立つ。それらは、身体感覚にも変容をきたしている可能性があり、トラウマ症状と呼ばれる問題が生じていることもあるので、その症状の変容に焦点を当てることもある。先述のような依存の問題が生じていれば、医師や他の支援機関の力も借り、その問題への取り組みが優先される場合もある。
次に、クライエントに上記のような影響を与えた本人がカウンセリングの場にクライエントとして登場した場合には、どのように接するのか。まずは、クライエントのどのような言動が相手の境界線を踏み越え、侵害する行為だったのか、何が相手を尊重しない行為だったのかを共に考える。行為の具体的な内容を知り、それが相手に与えた影響を意識するだけでも、同じ事を繰り返さずに済む場合がある。そのクライエント自身が、かつて尊重されず、侵入され、様々な感情を感じることをやめざるを得なかった子どもだった可能性も大きい。自分の感情や境界線がなくなった時点で、他人のそれもわからなくなり、そこに侵入することへの違和感がいつしかなくなったのである。その過去は、現在の他者への侵害行為を免責することにはならないが、自分の行動パターンを理解する助けにはなる。その上で、何が相手の境界線に侵入しない言動なのかを改めて学習し、実行し、維持する。行動の仕方はもはや長年の癖になっており、それを変えることは非常に時間がかかるが、そこで共に考えるのが臨床心理士の役目である。
「クライエントに何も足さずに、何も引かない」のが我々の基本姿勢かもしれない。しかし、何かが過剰に足されたり引かれたりしたように見える場合、クライエントと話し合いながら、クライエントが元々持っていた力、在り方、願望や尊厳、安寧を取り戻すような作業が必要になる。その前提は、背景に権力関係における侵害行為があった可能性を見据え、法律の文面と照らし合わせても、「侵害」とはわかりにくい行動の事実に目を凝らしていくという我々の姿勢である。