A子の場合
先日、女子高校生のA子さんから「ぼっちと言われるのがつらい」と相談がありました。
一か月ほど前、ライングループにB子さんが「A子がぼっちだから、みんな、声をかけてあげて」と書き込んでいたそうです。B子さんがどういうつもりで、書き込みをしたのか分かりませんが、A子さんはとてもショックだったそうです。
それからは少しでもひとりになると、「ぼっち」と見られている気がして、いつもいつも誰かと一緒にいるようにしていたと言います。
そんなある日、学食への移動で、いつの間にかひとりになっていたA子さんは、同級生のグループ数人が座っているテーブルを見つけて、急いで駆け寄ろうとしました。ところがA子さんが座ろうとした椅子に、グループのひとりのC子さんがポーチを置いたのです。
以前のA子さんだったら、C子さんに声をかけて、グループに加わることができていました。でもその頃のA子さんにそういう余裕はなく、涙があふれてきました。慌ててグラウンドの隅の人目につかないところに駆け込んで、必死で涙をこらえながら、お昼休みを過ごしました。結局、その日のお昼ご飯は食べないままだったそうです。
それから数日後、担任との面談がありました。進路についての話の後、担任から「最近、いやだったことはない?」と聞かれました。面談の最後にいつも聞かれる質問です。A子さんは学食での出来事を「ちょっといやだった」と話しました。グラウンドの隅で涙をこらえていたことは、話すと泣いてしまいそうだったので、話しませんでした。担任はうなずきながら聞いてくれて、A子さんは「分かってもらった」とほっとしたそうです。
でも担任は心配だったのでしょう。翌日に行われたC子さんとの面談で、事情を聞きました。するとC子さんは「えぇーっ! 気づかなかった。A子、言えばいいのに」と答えたそうです。
その後、A子さんは担任から呼ばれて、「C子に悪意はなかったのよ。あなたも、自分から声をかけるようにしなきゃ」と言われました。担任は励ます言葉もかけてくれたらしいのですが、A子さんはつらかった自分が否定された気がして、何も覚えていないそうです。
それでもA子さんは、C子さんに声をかけようと努力しました。でもC子さんが向こうを向いているだけで拒絶されているように感じて、うまくできません。C子さんが友だちと楽しそうに話していると、「私を仲間はずしにしようとしている」と感じてしまいます。
次第に「声もかけられない私だから、ダメなんだ」と思えて、最近は「こんなダメな私は生きていても仕方がない」と、死にたい気持ちも湧いてくるようになり、私のところに相談に来たという次第でした。(*事例は個人を特定されないように、本質を損なわないと考えられる範囲で改変しています)
ぼっちって何?仲良しって何?
最近、A子さんのような相談が増えてきました。この冊子を読んでくださっているあなたも、相談するほどではなくても、A子さんと同じような不安を感じるときがあるかもしれません。
さて「ぼっち」とは何でしょう? 二〇一〇年代からよく使われるようになった言葉です。「ひとりぼっち」が語源のようですが、「ひとり」と「ぼっち」ではずいぶんと意味が異なるようです。「ぼっち」には「友だちができないダメなやつ」「仲良しがいないダメなやつ」とバカにしている雰囲気があります。B子さんの書き込みが優しそうで、でも上から目線だと感じた人は多いでしょう。
じゃ「友だち」って何でしょう? 「仲良し」って何でしょう?
昼休みの教室にはいかにも楽しそうな笑い声が響くことがあります。その輪に入れないとき、あなたは「仲良しの友だちがたくさんいる人が、うらやましい」と思うかもしれません。
でも心理学の世界には「躁的防衛」という言葉があります。たとえば街でショッピングしているときに偶然、ちょっと苦手な友だちと出会ってしまったら、あなたはどうしますか? 苦手な気持ちに気づかないことにして、笑顔をいっぱいに浮かべて、明るく、うれしそうに挨拶しませんか? それも躁的防衛です。
教室の楽しそうな笑い声には、躁的防衛が働いていることもあるのです。
英語には“A friend in need is a friendindeed” ということわざがあります。「困ったときの友が真の友」という意味です。いつもはひとりぼっちだけど、困っている人がいたら、自分にできることはないかと考え、そっと手を差しのべることができる人。引っ込み思案で地味な人だけれど、みんなで頑張るときには誠実に、気持ちよく頑張れる人。もしそんな人があなたの身近にいたら、ン十年後、街で偶然、その人に出会ったら、あなたは思わず声をかけてしまうのではないかしら?
にぎやかな輪に入ることはできなくても、必要なときには喜んで「協力」できる人。そんな力を持った人が(「協力」という言葉には力が四つもありますね!)本当に素敵な人だと、私は思います。 そしてもし誰かが、にぎやかな輪から意図的にはずされるようなことがあったら、それは「いじめ構造の相互補完性」という力が働いているのです。誰かをはずすことで、グループの他のメンバーの結束を強くしようとしているのですが、それについて書くには行数が足りそうにないので、またの機会にしましょう。
ひとりでいられる能力
イギリスの児童精神科医のD・W・ウィニコットは「ひとりでいられる能力」という論文を書いています。彼は「ひとりでいられる能力は情緒的成熟とほとんど同意語」だと言います。「ひとりでいられる能力」は、あなたの心の中の『ぼっち君』です。みんなといるのに、なぜだかとても寂しかったり、ひとりぼっちでいるのに、とても充たされている気分だったり、そんなときがあなたにはありませんか? それはあなたの心の中の『ぼっち君』が成熟している証拠なのです。 そう、『ぼっち君』はあなたのいちばんの友だち。ひとりになる時間があったら、『ぼっち君』といっぱい話をしてくださいね。耳を澄ますと、『ぼっち君』は木々の輝きや、風の匂いや、雨の音などを通じて、あなたにたくさんのことを語りかけてくれるはずです。