「東大以外は大学ではない」。みなさんも、ドラマや漫画の中でそうしたセリフを聞いたことがあるのではないでしょうか。都内のいわゆる進学校でスクールカウンセラーをしていると、本当にこの「セリフ」が親御さんの口から発せられることがままあります。「東大以外は大学ではない」は、戯画化された世界の中でのできごとではないのです。

「教育虐待」とは

 こどもが亡くなる事件が断続的に発生していることもあり、児童虐待は近年広く認知され、防止が謳われています。そうした事件は貧困層家庭で起こることが多く、児童虐待は貧困と結びつけて考えられがちです。これに対し、むしろ裕福な家庭で起こりがちな「虐待」として「教育虐待」が昨今耳目を集めています。教育虐待の特徴は、わかりやすく「悪」だと感じられる通常の虐待と比べて、それが「悪」なのかどうかの線引きがあいまいでわかりづらいことです。
 親は「あなたのため」と思って教育を始めます。周囲からもそう見えます。でも、どこからか一線を越えてしまう。そして、その一線はどこにあるかわからない。教育虐待の内実は、そういったものです。

 「教育虐待」には、はっきりとした定義はありません。一般的には「こどもの人権を無視するような行き過ぎた教育」といった意味合いで使われています。そうした行為は以前から存在はしていましたが、それにいま焦点が当たっているのはなぜなのでしょうか。

先行き不安と教育の低年齢化

 一因として、教育の低年齢化をあげることができるでしょう。ネットで「早期教育」を調べてみると、予想外に「よい効果を生まない」という記事ばかりヒットするのに驚きました。というのも、臨床をしていると、早くから教育しなければという親御さんにお会いすることがとても多いからです。「そうした考えは間違っている」と断じるのは簡単ですが、ここではなぜそういうことが起こるかを考えてみることにします。

 最大の要因は、将来への不安でしょう。日本の未来が明るくないことは誰もがわかっていることです。今後日本では、高齢者の割合が増加し、こどもの数が減っていきます。すると若年層にかかる負担は必然的に大きくなります。にもかかわらず、毎月大量に持っていかれる年金は自分が支給される側になった時にはそもそも制度が存続しているかも怪しい。そんな未来が予想されるなら、わが子には学歴をつけて一生安泰な生活を送れることを保証してあげたい。そう思う気持ちもわかるような気もします。

 そう思うだけでなく、その思いを実行に移すことを可能にする条件が、一人っ子の増加です。よくも悪くも、こどもに対しての注意や金銭が集中する環境が整っているわけです。

中学受験の大衆化

 こうした時代の変化がもっとも表れているのが中学受験でしょう。首都圏では中学受験はかなり一般的になってきています。2007年にはついに5人に1人が中学受験をするようになりました。ここにも、親の不安が反映されていることが見てとれます。「ここに入れば安心」という手形をはやく切ってもらいたい、そして安心したい、そのためには進学実績のよい中高一貫校に入れたい、と。

 「中学受験は親の受験」。中学受験におけるこどもの成績は、親のサポートの質によって決まるのだ、という意味のことばだそうです。もちろん実際にはそんな単純な話ではないのですが、このフレーズが広まっているところからして、一部ではそう信じられているのでしょう。しかし、この考えが親を焦らせます。もしこれが正しいのであれば、こどもの失敗は自分が親としてやるべきことを十分に果たしていなかったからだ、と感じられてしまうからです。

 しかし実際には、残念ながら、人には固有の知能があります。勉強で伸びる部分とそうでない部分があります。「勉強」を「努力」と置き換えてもいいかもしれません。こうした言説は、いっけん差別的なものに聞こえるかもしれません。しかし、やはりそれは事実ですし、否認するわけにはいきません。固有の限界を無視することこそが、教育虐待に繫がるからです。

「大学受験も親の受験」?

 小学1年生から6年間の塾通いをし、最後の3か月は毎朝5時に父親に起こされ︑つきっきりで受験校の過去問をのべ50年分解かされる――。そういった極限を超えた勉強の末に、第一志望に滑り込んで合格したとして、どうなるか。授業は伸びしろをたくさん持っている子を基準に作られるわけですから、入学前にもう限界まで伸ばされて今にも切れそうな子が、適応が難しいことは想像に難くありません。

 中学受験が終わったのも束の間、息つく暇もなく、今度は大学受験に向けての六年間が始まります。彼らには休みなどありません。最初の中間試験で赤点など取ろうものならたいへんです。「教育は投資なのだから、見合った成果を見せろ」。そうしたことばとともに、部活は強制的に退部させられ、これまで以上に勉強が課せられます。怠けているのではなく、溺れかけているだけなのに。だから、成績は上がらない。余計に圧力は強くなる。

 進学校の生徒たちの学力は概ね高い水準にあります。その知力ゆえ、目立った形で不適応を起こす子はそう多くありません。すると、スクールカウンセラーを利用するのは親御さんが多くなります。とにかく多い相談は「成績が悪い(勉強しない)」と「ゲーム依存」です。そうした相談が続くと、まるで異常をきたした機械を修理してくれと言われているような気持ちになることもあります。

 その裏には、いろんな事情があります。一昔前は、中学受験と言うと「お金持ちの家のイベント」というイメージがあったかもしれません。最近はそうでもないのです。自分たちがしているような苦労をこどもにさせないよう、よい中学、よい大学に行き、高収入を得る、というコースに乗せることで、こどもの未来の安定を保証してあげたいという気持ちから、共働きで稼いだお金でなんとか私立進学校に通わせている、という家庭も少なくありません。せっかく乗れたそのレールになんとか戻してあげたい。戻れれば、幸せが保証されているのだから ―。そうした親の気持ちを、「間違っている」と一蹴することができるでしょうか。

 こうなると、「大学受験も親の受験」、もっと言えば「こどもの未来は親の責任」と感じられているのかもしれない、と言ってよいのかもしれません。親が追い詰められている、ということです。そうした社会のひずみを考えないわけにはいきません。

では、どうしたら?

 親は「あなたのため」を思って、こどもの幸せを願って、こどもに勉強させる。でも、それが本当に「あなたのため」になるのか。それは、こどもにはわからない。親にもわからない。本当は、誰にもわからない。

 万人に共通する「正解」はこの世に存在しません。私たちは、自分で自分の「答え」を選択していくしかないのです。「正解」を教えてくれる誰かを探すのではなく、話を聞いてくれる誰かと話すこと。その中で視野を広げること、そして自分が何を考え感じているのかを摑むこと。それが、「答え」を探す際に必要なことなのです。

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