不思議な不動産屋
大っぴらに破綻こそしていないものの、なんとなく日常がうまくいっていない気がして、考え込んでしまうことがあります。そういう時は、持ちもの、着ているもの、住んでいる部屋、全てがどんくさく見えて、総取り換えしたくなりさえするのですが、皆さんも「今のこのさえない生活は、ひょっとしてこの街のせいなのではないか。だとしたら今の生活を変えるためにも引っ越ししてみようか」と思うことはないでしょうか。
引っ越しは良くも悪くもその人の生活を一変させます。そして一変した新しい生活を東京有数の住みたい街、吉祥寺で始めようとする女性たちが、とある不動産屋を訪れるところから、今回紹介する漫画『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』(マキヒロチ作、講談社)は始まります。ある30歳前後の女性がこの不動産屋を訪れます。五年間介護していた母親が他界し、東京への転勤が決まったので部屋を探しに来たのだそうです。彼女は、「ニギニギしていて、治安良さそうだし、友達できそう」と吉祥寺への憧れを語り、初めての一人暮らしは不安だからと女性専用物件を希望します。
その不動産屋は双子の姉妹によって営まれています。来客がない時は、音楽を聞いたり、昼寝をしたり、とにかく自由な姉妹のようです。双子は一旦、吉祥寺の物件を案内します。しかし繁華街という立地に彼女が難色を示すと、「まぁでももっといい街あるよ」と吉祥寺とは全く関係のない街、駒沢大学駅に彼女を連れて行ってしまうのです。オリンピック公園や、商店街、緑道などを案内した後、双子は彼女にタワー型のシェア住宅を紹介します。
彼女は話が違うと混乱しますが、内見が進むにつれ、女性専用フロア、さらに共有スペースでの入居者との交流を通して、「家に帰って誰かがいる感じっていいですねぇ」と気持ちの変化を語り始めます。そして母親が亡くなってから、家に帰っても人がいないことが寂しかったことを振り返り、帰宅した時に誰かがいるこのシェア住宅への入居を決め、介護が終わった今、自分のために生きてみようと思うようになったことを語ります。
本当は何を求めているのか
ある人は仕事上の失敗から、ある人は交際関係のうまくいかなさから、と理由は様々ですが、ともかく何かを変えようと思い集まってくる彼女たち(作品中で男性の顧客は登場しません)が共通して抱えているのは、閉塞感であり、日常生活に遷延する行き詰まり感、そしてそうした生活から心機一転やり直すことへの期待です。
新宿、渋谷など主要駅へのアクセスが良く、商業施設やレストランが豊富、かと思えば近くには公園もあり緑豊かなその土地柄から、吉祥寺は住みたい街ランキング上位の常連であり、そうした吉祥寺の持つポジティブなイメージが自分たちの行き詰まり感を打開してくれるのではないか?という彼女たちの期待はもっともなようにも思えます。
しかし訪れた不動産屋の双子は、引っ越しの理由を聞くや否や「それなら吉祥寺、やめよっか?」という言葉とともに、雑司ヶ谷とか、錦糸町とか、蒲田とか、地理的にも雰囲気的にも吉祥寺とは全然違う街に彼女たちを連れて行ってしまうのです。当初彼女たちは戸惑いますが、徐々にそもそもなぜ吉祥寺に住みたかったのかを考え始めるようになります。そして双子との会話の中で、自分が吉祥寺に対して持っていた期待、それがどんなものだったのかを見つけ出していきます。
自分のことは自分が一番わからない
人は自分の気持ちや考え、欲望の全てを把握することはできません(これを発見したのは精神分析の祖フロイトです)。把握できないので語ることもできないし、時に人の欲望を自分の欲望として読み間違えすらします。なんとなく住みたい街ランキング上位の吉祥寺を選ぶというのは、この読み間違えに当たるでしょう。
しかし不動産屋の双子は、実際に物件があろうがなかろうが、言われるがまま「吉祥寺の物件」を提供することはありません。「吉祥寺の物件」そのものよりも、その人が吉祥寺に何を期待しているかを嗅ぎ取り、当人がその実本当に必要としているものを紹介しようとするのです。これは「とりあえず吉祥寺に住みたい」という言葉でしか表現できなかった、彼女達の期待や希望をすくい取っていると言えるのではないでしょうか。
双子のこの機能は心理臨床におけるセラピストの仕事に繫がっています。心理臨床の言葉で言えば、「吉祥寺に住みたい」というのはクライエントの意識的ニード、「こんな生活を送りたい」というのが内的、無意識的ニードと言えるでしょう。そして意識的ニードについて考えながら、同時に無意識的ニードがどこにどんな形であるかを考えるというのがセラピストの大事な仕事になります。
作品中の双子のように、セラピストもまた、クライエントの意識的ニード、つまりクライエントが求めるものを、そのまま提供するとは限りません。その人がなぜそれを求めているのか、なぜ必要なのかを聞き、その人が求めているものの背後にある、その人もまだ知らない、言葉にできていないニードを探し出そうとします。そしてクライエントの表面上のニーズと、内的なニーズを複眼視し、その両方を取り扱っていくということが、重要だとされます。双子は、セラピストのこういった仕事を不動産屋とお客さんという関係の中で実践しているというところが大変興味深いです。
視界が開ける体験
各エピソードの最後には、新しく引っ越した街の風景が見開き一ページに大きく描き出されます。それは当初期待していた吉祥寺ではなく、自らが思い描いたわけではないものですが、それでも妙にしっくりくる街の風景です。
この見開きページには文字通り視界が開けたという感覚が図像的に表現されています。今まで価値を置いていたものが相対化され、価値を感じていなかったものに、価値を見出す感覚、そしてこの視界が開けるという体験は、心理療法を受けた時に体験される感覚に近いでしょう。なんとなく日常生活がうまくいっていないと感じる時には、引っ越しと併せて心理療法を検討してみてはいかがでしょうか。