はじめに

 ナンニ・モレッティ監督の『息子の部屋』(2001年度カンヌ映画祭パルムドール受賞)は、主人公の精神分析医ジョバンニの日常が描かれていく序盤と、不慮の事故で息子を失い悲しみに沈む中盤、再生への微かな希望が見えてくる終盤まで、全編を通して静かながら深くこころに染み入る作品です。
 主人公とその家族にまつわる物語だけに留まらず、私たち専門家が自身のこころを素材にしながら他者のこころに触れることや、患者との関係性を使って治療を行っているからこそ考えなくてはならないテーマも描かれており、示唆に富んだ内容になっています。

リアルな治療場面と生活者としての治療者

 ジョバンニの日課はジョギングで、その日の朝も街中を走り、帰宅しました。すると息子アンドレアの学校から連絡が入り、アンドレアが友人と盗難をした疑いで停学処分となることが告げられます。息子を信じたい気持ちと疑念とが、ジョバンニには湧きます。
 そこから、患者がカウチに横になり自由連想をする治療場面へと移ります。この作品の見どころのひとつは治療場面で、それぞれの患者が語る姿は、とてもリアリティのあるものに仕上がっています。ある女性患者は、こころから触れ合える感じがしない治療者を責め、セッションが終わるといつも買い物をして満たされない気持ちを充足するのだと告白します。偏執狂の男性患者の猥褻で激しい語りが続くこともあれば、「問題は何もない」と言いながら自殺願望が消えない患者オスカーなど、個性に満ちた患者たちが登場します。
 治療者であるジョバンニも、アンドレアの盗難についての葛藤や、妻パオラとの夫婦関係、娘イレーネの快活さを見守る姿勢など、一般的に人々が体験するような生活者としての精神世界を過ごしています。はじめこそ抑制的で、たしかに他者と少しこころの距離が遠い印象を与えるジョバンニですが、次第にその人間味が現れてきます。
 強迫症状に苦しむ女性患者の語りに苛立つジョバンニは、いかに自らも強迫的であるのかを示し、不安はたいしたことではないから気にしないようにと患者の話を終了させる空想を抱きます。五年間、治療中止だと毎回怒り続ける女性患者との場面では、「もう止めたい」、「会いたくない」というジョバンニのこころの声が聴こえてきます。
 ある休日、盗難事件以来、距離を測りかねていたアンドレアをジョギングに誘ったジョバンニですが、患者オスカーからの電話を受け、急遽往診にでかけます。そこでオスカーから、肺ガンの可能性があり動揺していることを打ち明けられます。その間に、アンドレアは海で事故に遭い、亡くなってしまいます。

 傷ついた治療者の臨床からの撤退

 それまで冷静な治療者であったジョバンニは、「あの時、予定通りにジョギングをしていれば」、「オスカーの往診に行っていなければ」と後悔し、あったかもしれない息子との一日を空想し続け、特定の患者の話には感情が溢れて泣き出してしまい、一方オスカーには酷く冷たい言葉をかけてしまいます。今や、一個人としての感情が、治療関係に入り込んでしまっているのです。
 これでは治療を続けられないと感じたジョバンニは、「彼(オスカー)に謝りたかったけれど、謝れなかった」と同業者の友人にアドバイスを求め、オスカーに正直な気持ちを伝えることを提案されるのですが、「それでは分析ではなくなってしまう」と反論します。そしてついにオスカーから治療の中断を申し込まれ、受け入れてしまいます。ジョバンニがアンドレアを失ったことを知っているオスカーも、ジョバンニになにかを伝えたそうでしたが、互いにすれ違ったまま別れます。
 これを機に、ジョバンニは休業を決意し、患者たちにそのことを伝えます。ある患者は、自分のこころの中にあるものを散々引き出した挙げ句、全て放り出して見捨てるのかと怒り狂います。そこでジョバンニは、患者にとっての治療者の存在と、治療者にとっての患者の存在について気づきを得ているように見えます。ただし、この作品は解説的な台詞はほとんどないので、ジョバンニの心境については想像するしかありません。

終わる物語と、終われない臨床

 休業したジョバンニと一家がその後どのような道を歩むのかは、ここでは詳しく触れません、映画が終了したその先にも続く、ジョバンニだけの物語もあるでしょう。しかし私たちの実際の仕事は、そう簡単には幕引きになりません。
 臨床場面では、治療者が患者の声に穏やかに耳を傾けられなくなる局面があります。そのような時こそ、患者と治療者との間に生まれる転移―逆転移として理解し、治療へ役立てるように思考するのが精神分析の視点です。
 一方、私たち治療者も、ただの人間です。私生活での喜びや悩み、傷つきなど、様々な感情を抱きながら生きています。だからこそ、治療者として機能するためには、今湧き上がる感情は転移状況故なのか、それとも治療者の未解決なこころの課題によるものなのかを見定められるように訓練を重ね、自らが治療を受けることもあります。
 ジョバンニとオスカーの治療では、どのような判断をすることが正解だったのかはとても難しい問題です。治療者として機能できないと限界を感じたら、臨床を離れるという決断も場合によっては重要でしょう。しかし、ジョバンニが休業を伝えた時の患者たちの反応からこそ、学ぶべきものもあります。
 心理臨床は、こころの奥深いところに触れていく行為で、扱う内容は得てして心痛や喪失の物語が中心になっていきます。困っていない人は、私たち臨床家を求めては来ません。それ故に、簡単に始めたり、ましてや終わったりしてはならないという責任があります。
 実際のところ、ジョバンニのように愛する人を亡くした際の罪悪感や喪失感を抱えながら、治療では患者の哀しい物語を抱えていくという同時進行は、大変辛く耐え難い作業になるでしょう。それでも簡単には終われない臨床にどうにか留まろうとする時、治療者を支えるものは理論であり、同業の仲間であり、スーパーヴィジョンや自らの治療であったりするでしょう。同時に、生きる人間としては友人や家族など重要な他者の存在も不可欠です。そうして治療者として生き残り、ひとりの人間として哀しみを抱えて生きられるようになった先には、傷ついたからこそ聴けるようになる患者の物語があるかもしれません。

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