心理臨床の先達の卒業論文はいったいどんなテーマで書かれているのか?
そしてそのテーマは先達のそれからの臨床活動とどうつながっているのか?
今回の先達は医療現場における心理臨床家の草分けである佐藤忠司先生です。本来ならば、先生に直接インタビューをさせていただいたうえで執筆するコーナーですが、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、先生に卒業論文に関する資料を送っていただいたうえで、メールでのやり取りをさせていただき、執筆致しました(以下敬称略)。
二つの卒業論文
佐藤には、卒業論文が二つあるという。一つは佐藤が新潟大学在学時に書いた視知覚実験に関する論文である。これは後に横瀬善正が提唱した「視覚の誘導場」という概念に関連している。視覚の誘導場とは、図形のまわりに静電場のようなものとして仮定される場であり、等高線のように描かれるその誘導場の形態によって人間の図形認知は影響を受けるとされる。佐藤の卒業論文では、水平方向に一列に並んだ小点の上に別の大きな点を打つ、すると実際には一直線上に並べられた小点が隣接する大きな点の存在に干渉され、水平に並んでいないように知覚されるのではないか、というリサーチクエスチョンに基づいて実験がされた。この時の「図形の認識は、その形状のみで決まるわけではなく、関連する別の図形の影響を受けるのではないか」という問いは、佐藤が病院で臨床を始め、大量のロールシャッハテストのデータに囲まれるようになってからも維持されることになる。
ロールシャッハテストは一〇枚の相互に関係のない図版が使用される。しかし例えば、一つ目の図版に何か付け加わる形で二つ目の図版がデザインされていたとしたら、それはどのような反応を生むのだろうか。このように佐藤の視知覚研究への興味は、ロールシャッハテストを通して臨床心理学的な問いへと繫がっていった。以上は佐藤の卒業論文の〝正史〞といえよう。
苔を見つめて
もう一つの卒業論文は〝正史〞論文が出来上がる数年前、新潟市立高校時代に書かれている。テーマはなんと苔コケについてだ。絶滅危惧種「クマノチョウジゴケ」の発見についての克明なレポートである。「珍蘚クマノチョウジゴケ発見」と題されたこの論文は佐藤がクマノチョウジゴケを見つけることになったいきさつ、発見した場所、その形態についての記述とスケッチで構成されており、ガリ版刷りのものながら専門家からは高く評価されているという。この卒業論文を書くことになったのは、蘚苔類の研究家でもあった高校の生物教師の影響が大きかった。高校では珍しく卒業論文提出を求められたため佐藤はそのテーマに苔を選び、収集そして観察の日々を送った。佐藤にとってこの苔体験は、自分自身の独創性を評価してもらえたというところが大きかったという。
その後、佐藤の独創性は、ロールシャッハテストと他の心理テストを組み合わせ、その結果を客観的な数値として患者の状態理解へと使用するアトラス法として結実することになる。臨床家の臨床的直観のみに頼らずクライエントを診るためのツールの必要性を感じてのことだった。
「苔の観察には顕微鏡が使えないといけないですから」と語られるように、佐藤は高校生時代から植物観察の眼力には絶対の自信があったという。佐藤の興味は高校時代から一貫して観察することに向けられていたようだった。小さな苔の形態の微細な特徴を捉えるために培われた佐藤少年の「観察眼」が、のちに臨床心理学にもたらした貢献は大きい。
佐藤忠司(さとう・ちゅうじ)
一九三二年新潟生まれ。一九五五年新潟大学人文学部心理学専攻卒業。新潟県立療養所悠久荘を経て、一九九一年新潟心理相談システム開設。著書に『臨床心理査定アトラス―ロールシャッハ・ベンダー・ゲシュタルト・火焰描画・バッテリー』『臨床心理査定アトラス法への招待』(ともに培風館)など