前号「心理臨床の広場」(Vol.12No.2)の巻頭言に、横山知行先生がある講習会での話し合いの様子を書かれています。テーマは、クライエントに「死んだ方が楽かな・・・・・・秘密にしてほしい・・・・・・先生だからやっと話せた」と告白された時、カウンセラーとしてどう対応するか、でした。私のブックガイドはこのテーマを引き継いでいます。
 自分がカウンセラーだとして、このように告げられた時の気持ちを想像してみて下さい。信頼されて嬉しいと思う反面、困った、どうしようと動揺するのではないでしょうか。『恥と意地―日本人の心理構造』(鑪幹八郎、講談社現代新書、一九九八)で鑪先生は、日本人は昔から他人に対し恥ずかしい生活をしない、体面を重んじ、欲しくとも意地でも我慢してきた。日本の文化は「恥の文化」「意地の文化」であったが、近年、日本人は、他人に迷惑をかけても自分の欲望を満たすことを諦めず「恥知らず」の行動を取るようになったと指摘しています。恥、意地、罪悪感などは臨床的にも非常に重要なテーマです。
 同書を手掛かりにこの場面を考えてみます。「秘密にして」と言われ、カウンセラーでいる「建前」の自分に、「突然の照明」が当てられ、一人で責任なんか取れるだろうか、できるなら逃げ出したいと、緊張し、うろたえる「本音」の自分に直面してしまう。責務を放り出せば人に指弾され、自分でもダメな奴だと恥じることになる。突然の照明は「誇大的な自分」と「つまらない自分」を照らし出す。理想の自分から見ても、周囲の期待に対しても、適切に対処できない自分は恥ずかしい。おまけに、逃げたら、恥ずかしいだけでなく、罪悪感にも苛まれる。
 さて、本稿では、『曠野の花―新編・石光真清の手記(二)義和団事件』(中公文庫)を紹介します。石光は明治の陸軍諜報将校でした。本書から、石光も含め昔の日本人の心意気を感得できます。例えばお米という女性は貧困から満州に渡り娼婦になり、戦争に巻き込まれ死地を石光に救われます。その後、馬賊の頭目の妾となり、石光がその馬賊に囚われ瀕死の時に救い出しました。その時、お米は馬賊から「お前を信じて石光を信じるが、もし裏切ったら、どんなに逃げても必ずお前を探し出して八つ裂きにする」と脅されました。信義を問われたお米は「私も日本の女です。恩を仇でかえすようなことは致しません。もしそのようなことがあったら、八つ裂きなりと何なりとお心のままにして下さい」と啖呵を切ります。彼女は信じてくれた人を裏切るのは、人としても、日本の名誉のためにも恥ずかしいことだと「意地」を示したのでした。
 私は、お米が貧しさから苦海に身を沈めた恥ずかしい身であっても、「恥知らず」になることをよしとせず踏みとどまったことに心意気を感じます。臨床でも、クライエントを「意地」でも責任をもって引き受けようと覚悟する。空意地でも意気地なしでもなく、踏みとどまり、自分の「恥」と「罪悪感」に向き合い、自分に投げかけられた告白の意味を考える。誠実にクライエントに向き合うこと、信頼に応えようとすること、逃げないこと、それが臨床家に必要な心構えだと思います。
 私の勤務先、大妻女子大学の校訓は、大妻コタカの「恥を知れ」です。厳しい言葉に、「恥知らず」な自分から逃げてはいけないと思っています。

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