特集01: ジブリで学ぶ心理臨床学「超」入門 千尋が教えてくれる本当の自立とは?―『千と千尋の神隠し』に見る自立の心理臨床学
著者 あざみ野心理オフィス 岩倉 拓
千尋は両親をどうして見分けることができたの?
映画のクライマックス、元の世界に戻れるかがかかった問いに自信を持って答えた千尋。意地悪に見えた湯屋の面々も千尋の正解を祝福する印象的なシーンです。それにしても、千尋はなぜあの問いにしっかりと答えることができたのでしょうか?
リアルな『千と千尋』
『千と千尋の神隠し』はジブリ作品の中でも人気の高い作品です。主人公の千尋はジブリ作品に見られる真っ直ぐで正しい主人公とは一線を画す、冴えない顔をした都会っ子です。そして、千尋の家族もとてもリアルです。これは『となりのトトロ』と比べればわかりやすいでしょう。どちらも冒頭から引っ越しという別離のテーマが描かれているのですが、トトロの姉妹は子どもの空想や好奇心を大切にする大人たちに囲まれ、引っ越しを存分に楽しんでいました。そして、登場してくる「おばけ」達は一貫して手助けしてくれる存在でした。
しかし、『千と千尋』では簡単ではありません。千尋は見るからに引っ越しに不満なのですが、両親はその気持ちに配慮する気配もなく物語が始まります。いざ湯屋の世界に迷い込むときにも、不安で体を寄せる千尋に母親は「そんなにくっつかないでよ。歩きにくいわ」と突き放します。これはジブリ史上に残る"塩対応"と言えるでしょう。千尋の制止を振り切って、店の食べ物を勝手に食べ始める父親も、いわゆる"俗物"です。しかし、どちらも悪人というわけではなく、むしろこれがリアルな大人の姿ではないでしょうか? 大人達もゆとりがなく、未熟で、時に傷ついている。自分の都合や欲望に精一杯。そんな中で成長し、生き抜いていかなければならない私たち。理想郷に見えるトトロの世界よりも『千と千尋』の世界こそ私たちにとってリアルで身近なのです。
登場人物は千尋のこころの表れ
では、異界である湯屋の世界をどう考えればいいでしょう? 臨床心理学の祖の一つであるフロイトの精神分析の視点で見ると、湯屋の世界は千尋の「夢」(夜見る夢)として読み解くことができます。わたしたちの夢の中には、怖い怪獣や魔物、手助けする人物、得体のしれないものなどさまざまなものが出てきます。しかし、よく考えてみると、夢は見ている人のこころが作り出しているので、どんなに意味不明でも、その登場人物はその人のこころの中の部分が現れていると考えることができます。怖い怪獣は、その人のこころの中の荒々しい部分のイメージであり、「怖い」という気持ちの反映だったりします。つまり、湯屋の登場人物はすべて千尋自身のこころにルーツがあり、それらが相互作用して物語を構成しているのです。そして、湯屋の世界の八百万の神々のように、個人の体験を超えた普遍的な無意識(ユング)と言われる領域も反映されていると考えられます。
千尋の心理的危機
転校という別離をきっかけに、無気力な表情をしている千尋は、実は大きな心理的危機にあります。登場人物が千尋のこころの反映だとすると、「役に立たないものはいらない」と厳しい現実を突きつける理不尽な親や社会(湯婆婆)、カオナシが表わす寂しさと思い通りにしたいどん欲な欲望、坊のようにずっと赤ちゃんとして甘えて暴れていたい気持ち、などが千尋の中に渦巻いていたのでしょう。
特に重要人物である湯婆婆は塩対応で厳しく、 銭婆婆は対照的に優しく、保護的でした。「銭・湯」で一つの言葉と読み解けば、この双子の婆婆はこころの中のよい親イメージと悪い親イメージであり、合わせて一人なのです。この婆婆達と出会い、千尋は物事のよい面と悪い面が分かち難く存在していることを直視していきます。つまり千尋は自分のこころの強烈な部分や矛盾した部分と戦っていたのです。
湯婆婆に姓と名前を奪われ、千尋は「千」と呼ばれるようになります。姓名は人の歴史や親の期待など「生まれた意味」や「自分らしさ」を表し、それを失うことは自己の危機を意味します。心理的危機とは「自分は何者で、何をしたいのか」という大事なことを忘れてしまうという危機なのです。この名前を守る戦いは、他者に合わせすぎて自己を見失うか、欲望に飲み込まれて他者や社会を見失うか、の狭間で自分を確立するという困難な道のりになります。
千尋の心理的自立
親に振り回されている千尋には「親なんか消えちゃえ」という気持ちもあったでしょう。そして、実際に両親が豚になったところで戦いは始まります。心理的自立は依存と表裏で、自分が依存していることを自覚することができてはじめて自立の道が開けます。カオナシの誘惑をはねつけ、「ハクを(両親を)助けたい」と言い切る時、千尋の意志が私たちにも伝わってきます。自分にとって何が大切なのかということから目をそらさず、自らの望みを発見することによって千尋は一歩自立したのです。
こうして、今まで依存していたハクや両親を救い出すため、千尋は困難な道を自らの意志で進んでいきます。自立はただ我が道を行くことではなく、不完全で悪いところもある相手を丸ごと受け入れ、その人を思いやることなのです。作中の釜爺の言葉を借りれば、それは「愛だ、愛」ということになりましょう。
成長した千尋は湯婆婆に「おせわになりました!」と感謝の言葉を伝えます。これは"塩対応"で"俗物"な両親像をこころから受け入れ︑憎しみや不満を超えて親への愛情と感謝を感じている表れです。こうして︑二つの側面を直視した上で︑「両親」=「世界」を愛することを選び取った千尋にとって︑豚の中から両親を見分けることは簡単なことだったというわけです。
自立によって他者を助ける
注目すべき点は、自立の過程で千尋は両親のみならず、ハク、カオナシ、坊、そして湯婆婆にも影響を与え、彼らを助ける存在になっていることです。これは私の推測ですが、千尋の両親はなんらかの傷つきや喪失体験を経てきたようです。千尋の成長は、いつしか母を助け、父の生きがいとなり、この家族の希望となってこの後も灯り続けることを予感させます。
臨床の現場では、千尋よりももっと過酷な状況、周囲からの塩対応どころか"毒対応"の中で心理的危機に陥っている人もいます。千尋のようにうまくいかず、社会や現実からの圧力に屈しそうになったり、自分の欲望のなかに引きこもってしまうこともあります。
『千と千尋の神隠し』は、そんな私たちに自立した個になることの困難さと大切さを伝えてくれます。自立することは、自分が不完全であることを認め、誰かのために働き、誰かを愛することができるようになることです。これは千尋の歳に限らず、現代の私たち共通のテーマであり、その「心理的自立」の姿を千尋は見せてくれているのです。