誰にも関心を持たれず、自分が何者かもわからない。誰にも繫がっていないし、自分が頼りになるわけでもない。この世界に独りぼっち。消えてしまいそう。
 そんな底の見えない寂しさを抱えている人は少なくありません。

「カオナシ」の寂しさ

 宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」はこの寂しさをよく表しています。
 自分からは人と繫がれない。誰も入れてくれない。それで外からぼーっと見ている。中に入れてもらうと、相手が望むものを与えようとする。相手は喜ぶので、なんでもかんでも与えてしまう。あるところでそれは失望と怒りに変わる。怒り狂って暴れまわるバケモノになる。破壊の限りを尽くし、そこから追い出される。そして、また何もない自分に戻る。誰もそれがバケモノだった怖さしか覚えていない。本当はどんな人だったのか、名前も「顔」もわからない。だから「カオナシ」。おそらく自分自身にもわからない。

どんな気持ちなのか

 自分はこの世界のどこにも繫がっていない。すべては透明なガラスを隔てた向こう側のこと。近いのは見知らぬ土地を一人で訪れた気持ち。誰も自分を知らない。言葉も通じないし、何がどこにあるのかもわからない。誰からも必要とされない。自分がいてもいなくてもこの世界は何も変わらない。たとえ旅でもこれまでの経験を頼りに誰かと繫がれば、少しずつそこが居場所になる。けれど、これまでの経験がないか、ひどい経験しかなかったらどうか。独りぼっちのままかもしれない。
 ずっとずっと寂しい。
 独りぼっちだからこそ、必死に人と繫がろうとする。なりふり構わず、居場所を作ろうとして。相手の希望に沿おうとしたり、奉仕したり。でも同時に、拒絶されることを強く恐れている。恐れは密かに積み重なっていき、ある時、怒りとしてさく裂する。見境なく自分を傷つけ、周囲を傷つけてしまう。そこにあるのはずっと放っておかれたことへの恨み。そして、また独りぼっち。やっぱり自分はダメ。何度やっても同じ繰り返し。そうして「寂しさ」はまた強くなる。
 ずっとずっと、ずっと寂しい。

どうすればいいのか

 「寂しさ」には二つの種類があります(図)。一つは、自分から大切な何かが失われる寂しさ。必要になるのは、心に空いた穴を埋めること。もう一つは、どこにも繫がっていない寂しさ。ここで述べているのはこちらです。これはいくら穴埋めしてもおさまりません。むしろ怖さと恨みでエスカレートしていきます。まるでわがままな赤ん坊です。でも違います。問題は物足りなさではなく、居場所のなさです。心の中に「安全基地」がないのです。だから、必要なのは安全な繫がり方。奉仕したり、暴れまわったりするんじゃない。ちゃんと自分の顔が見えて、相手の顔が見えて、相手に自分の顔が見えて繫がること。「カオナシ」ではなくて。
 まずは、自分で頼んでみましょう。きっと大丈夫だから。断られたとしても落ち着いて。まだ追い出されていません。何がOKで何がダメなのかを少しずつ確認しましょう。自分とも相談しながら。大丈夫、少しずつならちゃんとできるから。
*本稿は児童精神科医島内智子先生とのお話から着想を得ました。

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