楽しくないのは当たり前?

 コロナ禍で「弱さ」の世代間格差が明らかになりました。若年者に比し高齢者の死亡率が高い。良かった。子どもが大量に死に、高齢者が生き残るとしたら悲劇です。コロナ禍は高齢者の「弱さ」を浮き彫りにしました。高齢になると種々の機能不全が生じ、やがて死に至ります。それが自然なプロセスです。運動をしても、脳トレをしても、栄養を摂取しても、人が老いて死ぬ事実は変わりません。そんな高齢者が「楽しくない」のは当たり前なこととも言えます。「身体のあちこちが痛む」「ミスが増える」「情報処理が遅く、すぐに行動に移せなくなる」「忘れっぽくなる」。社会的にも「仕事を失う」「収入が減る」「役割を失う」し、対人関係においては「友人と気軽に会えない」「親しい人が亡くなる」体験に晒されます。

そこそこフツウに生きるのはすごいこと

 このように生きる上で負の要因が増えても、ほとんどの高齢者は不具合を抱えながら、そこそこフツウに生きています。それ自体がすごいことではないでしょうか。街に現れて「キレル」ことだってあります。「キレル」にも種類があって、蓄積してきた経験や知恵を働かせ、良い方に「キレル」こともあれば、感情を抑えきれず、悪い方に「キレル」場合もあります。いや、良いとか悪いとかの区別が絶対的なものではないと深く悟るのが高齢者です。多様な在り様を受け入れるキャパが広がります。

楽しくない自分に直面したら

 とは言え、高齢者は「楽しくない」自分に直面する機会が少なくありません。どうすれは良いのでしょうか。ここでは三つの術に触れてみます。
 第一に「楽しくない自分に向き合う術」。楽しくない自分を認めて「あっ、今、私は楽しくないのだ」という事実に向き合う。楽しくない自分を観察する。言葉にして書いてみる。以前同じようなことがあったならば、どう抜けたか考えてみます。抜けずに抱え続けることに意味がある場合もあります。自分に向き合うのは苦しいものです。その場合は別の術を使います。
 第二に「そらしの術」。若く忙しい時は、意識せず「そらしの術」を駆使するものです。楽しくない自分を味わう間もなく、現実的要請が押し寄せます。「母として」「祖父として」「娘として」「学生として」「仕事人として」など多重役割を持ち「すべきこと」に囲まれてきました。高齢になると「すべきこと」から徐々に解放されます。自由に使える時間が増えます。最大限に活用するためには、そらすための引き出しを開発し、使えないものは捨てていけば良い。また拾うこともできます。
 第三に「他者に助けを求める術」。高齢者が他者に助けを求めるのは案外難しいものです。プライドが傷つきます。すると「何でも自分でできる」と思い込みます。ここに落とし穴があるのです。介護を要するようになり、他者の助けを受けいれられない人はとても苦労します。そんな姿をたくさん見てきました。「お願いします」と素早く謙虚に助けを求める訓練を若い時から積んだ方が良いと思います。
 当たり前なことばかり挙げてきました。当たり前なことを踏まえ、より大きな自由を得る可能性に開かれるのが高齢期です。弱さを弱さのまま認めれば、弱さが強さに変わることもあります。弱さや限界にとことん直面し、初めて到達する老いの在り様があるのではないでしょうか。

広報誌アーカイブ