子どもの思い
最近、後輩の若い女性が結婚しました。引っ越しの日、夫となる人のお母さんが新居の掃除を手伝ってくれました。優しい姑の心配りに感謝しながら、掃除を終えて、見送りに玄関に来て、彼女は愕然としました。一見して高額と分かる玄関マットが敷かれていたからです。
姑が好きな薔薇の花柄は、モノトーンで揃えたインテリアの中で華やかに浮き上がっていました。
何も言えずにいる彼女に気づいた彼が、とりなす口調でお礼を言っているのを、遠い現実のように聴いていたそうです。
もうひとりの知人、三〇代になったばかりの若い専門職の女性は毎年、春が来ると憂うつです。北海道に住む母親から大量のアスパラガスが送られてくるのです。大学入学で故郷を離れた年から続く定期便です。
職業人として多忙な今、帰宅して寝るだけの日々に、大量のアスパラガスは手に余ります。母親は「ご近所に差し上げて」と言いますが、彼女のマンションに住むのはみな彼女と同じ多忙な職業人ばかりですし、そもそもあいさつ程度のつきあいで、親しく話したこともありません。
次第にしなびていくアスパラガスに、彼女の気持ちも滅入っていきます。そして、食べられそうにない状態になって、ごみ袋で出すころには、決まって父親から電話があります。父親はアスパラガスのことは何も言いませんが、彼女は、すぐにお礼の電話をしなかった言い訳を繰り返すことになります。
素直にお礼を言えない自分に嫌気が差し、嫌気が差している自分にさらに嫌気が差して、最近ではアスパラガスを見ただけで、吐き気がするようになったと言います。アスパラガスに罪悪感の記憶が結びついて、フラッシュバックが起きているのでしょう。
家族愛への幻想から自由になろう
私も、子を持つ母親です。高価な玄関マットを奮発した姑の気持ちも、 新鮮なふるさとの味を送りたい母親の気持ちもよく分かるつもりです。わが子が一人暮らしを始めたときには、駅で別れて、ホームへの階段を上りながら、ポロポロと落ちてくる涙をどうにもできませんでした。今でも、子どもへ荷物を送るときには、あれもこれもと詰め込みたくなります。
だからこそ強く思うのです。子どもの成長に合わせて、親も成長していかなくてはと。
成長とは、一人でいられるようになることです。お腹の中にいて、母親に命のすべてを預けていたわが子は、生まれ落ちてもなお、母親に全存在を依存しています。そこから徐々に自立し、一人の人間として歩み始め、親から離れていきます。
お互いに独立した人格として、適度な距離を保ちつつ、思いやりを持ち続けること。家族愛はしばしば「私の愛があの子には必要」「私の愛は間違っていない」という確信に似た幻想を含みます。それがしばしばトラブルを生じさせます。
「愛」だと自分が思っているものは、もしかしたらわが子にとっては負担かもしれない。そんな自身への冷静な距離を保つことが、大人になったわが子と良い関係を維持するコツなのかもしれません。難しいことですが。