鑪幹八郎先生は一九九八年に京都文教大学に教授として着任され、長きに亘り、学部生、大学院生の教育・指導に情熱を傾けて来られました。また、二〇〇八年~二〇一四年には学長としても京都文教大学のために多大なる貢献をなさいました。
 鑪先生が二〇二一年五月七日にすい臓がんで永眠されたことは、本当に悲しく残念なこととして大きな衝撃を受けました。毎年、大学院では事例検討会を実施しており、昨年はコロナ禍のためにオンラインで開催することになりました。事例検討会では現役大学院生、修了生で構成されている京都文教大学心理臨床学会の総会があり、鑪先生には顧問として長年、ご尽力いただいておりました。事例検討会の前に鑪先生にお電話で顧問を継続していただけるかお尋ねした際に、すい臓がんで闘病中であることをお話くださり、私は初めて鑪先生の病状について知ることになった次第です。お電話では張りのある声で七月には鑪先生ご自身の講演会をご予定なさっていることもお話くださり、闘病は辛いけれども、まだまだ頑張るというお気持ちを話して下さっていました。それだけに五月の急逝はとても衝撃的でした。
 鑪先生の思い出を紐解くと、尽きることなくたくさんのことが溢れ出てきます。鑪先生は幅広い視野で夢分析やアイデンティティなどの奥深い研究を継続していらっしゃいました。特に先生のライフワークであった哲学者・森有正を軸に執筆された『森有正との対話の試み』(ナカニシヤ出版、二〇一九)はご自分自身との対話でもあったのではないかと思われます。有正の祖父は明治の初代文部大臣・森有礼であり、岩倉具視の五女・寛子との間に父・明が生まれ、父は水戸徳川家の血筋である母・徳川保子と結婚し、その間に生まれたのが森有正でした。まさに明治の動乱期を政治の表舞台で生きた一族の出自でした。二歳の時に牧師であった父によりキリスト教の洗礼を受け、キリスト教は有正に生涯を通して影響を与えることになります。三一歳で結婚、三七歳で東京大学助教授。三九歳で戦後初のフランス政府給費留学生として渡仏しました。一年で帰国する予定であったのに有正は東大の職位、収入を全て捨てパリに永住することを決意します。妻とは離婚し小学生の二女・聡子をパリに引き取りました。有正の無謀な決断に対し鑪先生は有正の『バビロンの流れのほとりにて』(講談社、一九五七)の「過去において不正直であったこと、外側だけでつじつまを合わせてきたこと、このことくらい自己の成長を害し、痛ましく心を嚙むことはない」という有正の言葉から、日本で小器用にフランス哲学を学び東大助教授までなり得ているが学問の本質を蔑ろにしてきた有正の深い苦しみを見出しています。そして『城門のかたわらにて』(河出書房新社、一九六三)では、自己経験によってのみ「真正 authentic な自分」が立ち現れることを有正が感じたことを鑪先生は指摘されています。有正が一四歳の時に父親を亡くしたように鑪先生も幼少時にお父様を亡くされたこと、有正がフランス留学で並々ならぬ苦労を重ねたように鑪先生も精神分析の訓練のためにアメリカのホワイト研究所、そして統合失調症患者の治療を専門とするリッグスセンターに留学され苦労されたことなど、重なる部分が多くおありだったのではないかと思います。有正と同様、鑪先生にとってauthenticな経験、authenticな自己を見出すことは一生を賭けて追求するテーマであったと思います。
 鑪先生、長い間、本当にどうもありがとうございました。これからも、いつまでも私たちのことを見守り続けていてください。どうぞよろしくお願いいたします。

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