1.鑪幹八郎先生の研究と臨床
わが国の臨床心理学を開拓する
鑪幹八郎先生が亡くなられて、今年五月で一年を迎えます。鑪先生は、精神分析的心理療法の理論と実践、夢分析、アイデンティティ研究、心理臨床家の育成・教育・倫理など、その奥行きと広がりを持った視点で、わが国の臨床心理学を牽引してこられました。日本心理臨床学会にもその設立当初から関わり、理事、常任理事、理事長として、貢献されてきました。
「境界」を超えて: 精神分析学とアイデンティティ研究
鑪先生のご専門は、対人関係学派H・S・サリバンの流れを汲む精神分析学です。対人関係学派の精神分析学をわが国に初めて紹介し、その理論と臨床実践を発展させたのも鑪先生の功績です。
鑪先生のもう一つの関心は、アイデンティティ論の戧始者E・H・エリクソンの仕事でした。先生は、エリクソンの理論や臨床に限らず、その人生そのものに深い関心をお持ちでした。エリクソンの人生とご自分の育ちの経験が重なるところもあると伺ったこともあります。
2.心理臨床家を育てる
鑪先生は、広島大学教育学部(現広島大学大学院人間社会科学研究科)に、一九七一年四月に着任されました。広島の地に初めて心理臨床の種をまき、大樹に育ててこられました。私たち学生は、精神分析学・力動臨床心理学の魅力に取り付かれて勉強しました。それは学問の魅力とともに、鑪先生ご自身のお人柄の魅力も極めて大きいと思われます。鑪先生は、それまでの私の育ちの中で出会ったことのない魅力的な「異文化」であり、「謎」でもありました。
「謎」とは何か。第一は、先生の仕事への向き合い方でした。それは、先生のAuthenticity(本気であること)そのものでした。今から思うとそれは、学生に「本気で仕事をする姿を見せる」という教育ではなかったかと思います。
第二は、先生の中の父性と母性、つまり厳しさと優しさでした。「相手を深く理解し抱える」「懸命に努力しながら待つ」― これらは、心理臨床家がクライエントに対して求められる姿勢ですが、先生の院生を育てるスタンスにも相通じるものでした。あの決して妥協しない厳しさと、包み込むような温かさは、どうやって形成されたものなのか。これは先生の土台であると直感しながらも、長い間、その由来は謎でした。
3.謎解きとしての『境界を生きた心理臨床家の足跡』
その謎解きの意味を込めて、鑪先生の生涯の物語を、山本力さんと私が鼎談の形で伺い、『境界を生きた心理臨床家の足跡』(岡本祐子編著、語り手 鑪幹八郎、聴き手 山本力・ 岡本祐子、二〇一六)として、ナカニシヤ出版から刊行しました。本書は、鑪先生の人生の物語であると同時に、わが国の臨床心理学の発展の歴史や、鑪先生ご自身の臨床経験がリアリティをもって語られています。また若い世代に向けて心理臨床のヴィジョンと学び方が具体的に示唆されています。ぜひ読んでいただきたい一冊です。
この五〇年間、亡くなられる二か月前まで、言葉を交わし、信頼し学ぶという先生との関係を持ち続けることができたことは、私の人生にとってかけがえのない経験でした。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げつつ、筆をおきたいと思います。