鑪幹八郎先生を偲んで

 鑪幹八郎先生が御逝去されたと奥様から日本心理研修センターにお報せ戴いた時は驚き絶句した。そのお電話を戴いた三週間程前に、当センターの評議委員会にご出席下さり、エレベーター前でお見送りするセンター職員に「皆さん、ご苦労が多いことでしょう、健康に気をつけて」と優しく微笑まれた時はお元気そうでいらっしゃいましたのに……。
 先生は日本心理臨床学会会長を務められたのを始め、様々な面で、我が国の臨床心理学の発展のために大きな御功績を残された。ただ、このあたりのことについては他の方が語られると思うので、私は先生が残された御功績や様々にお持ちでいらっしゃった美徳のうち、外国文化を受け入れるに際して、それをただ先人の優れた説や技法として受け入れるのではなく、その理論が提唱されるに到った背景要因について周到に考慮され、その理論や技法が生まれるに到った歴史的背景、その理論が生み出されたその地の文化の特質、さらには社会経済的状況などをも考えられて、我が国でその理論や技法を取り入れ活かすにはどういう配慮が要るかということを深くお考えになっていたところが私の尊敬するところであり、また共鳴するところでもあった。
 鑪先生が広島大学御在任中、大学院の集中講義に招いて戴いたが一週間のうち、昼間、多くの時間に教室にお出ましになって、院生と一緒の討論に御参加下さったが、自由闊達さと問題追及への厳しさが絶妙にバランスがとれていて、今も記憶に鮮やかな充実した時間であった。そして、夕食を御一緒しながら、E・H・エリクソンがアイデンティティという概念を提唱するに到った必然性や背景要因、彼のような複雑な生育背景を持たなかったり、基本的に同質民族という感覚を持つ日本人が複雑な或いは異なる文化、歴史的背景、社会経済的要因、つまり自分たちと異なる背景要因の下に生まれた理論や技術をいかに受け入れ、その特質を効果的に臨床実践にどのように活かすのかなど、本質的で真剣な内容の会話を交わしながら時にユーモアを交えて、真摯であるけれど重くなりすぎない実り豊かな会話の時を過ごさせて戴いたのも懐かしくかつ貴重な想い出である。
 公認心理師法が成立したのを機に開かれた広島臨床心理士会総会にお招き下さった折、鑪先生は法文に明記されている公認心理師の職責について、これまでとはどこが違うのか、その責任の重さを自覚する必要性について諄々と説かれた。外国の文化をどう取り入れて自分なりに如何に適切に活かすか、事に当たっては責任を自覚する、先生から伝えられた大切な課題、これらを事を処すに際して、しっかり活かしていきたい。鑪先生のご冥福を心よりお祈り申しあげます。

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