彩瀬まる〔著〕 講談社文庫、二〇一九年

大切な人を失うこと

 この文章には、震災の話題が出てきます。負担に思う時は避けて下さい。
 親友が、旅行に出たまま数年もの間連絡が取れなくて、生きているのか死んでいるのかさえわからない。その上、震災が起きた時からだとすると……。
 原作では、ホテルのバーで働く主人公の真奈が、いなくなった親友すみれのことを思い出してはすみれのことのような夢を見る。また現実生活に戻ってはすみれを何度も思い出日々が続く。やっと涙を流すことができ、夢にも出なくなる。この長い道のりが、振り子のようなリズムで書かれています。それに、真奈を主語に書かれているので、真奈の視点から、読む人自身がすみれを探しても見つからない不安や怒りを追体験することになります。

喪失を生きる

 一方、中川龍太郎監督の映画『やがて海へと届く』(ビターズ・エンド配給、二〇二二年)では、真奈(岸井ゆきの)は、大学に入学してすみれ(浜辺美波)に出会って、家出したすみれが真奈の部屋で暮らすほどに仲は良いのに、二人の間にちょっとしたためらいがあることも描かれているのが印象的でした。原作も映画も、いつも一歩先をリードしていたすみれと心の中で対話する真奈の、静かで、時には激しく揺れ動くこころを描いています。
 この作品からは、行方不明のままで、今、どうしているのかわからない「 あいまいな喪失」(ambiguousloss)について、すみれを探す真奈を通して学ぶことができます。真奈の視点から言い直すと、生きているのか死んでいるのかわからないという二つの気持ちの間で、引き裂かれそうなほどに揺れ動くこころについて、描いた物語だと言えるでしょう。

迷子になりそうな道のりでの支え

 ところで、面接場面では、来談者と面接者の関係を通して、人それぞれの喪失体験を共に辿ることになります。時に迷子になりそうな道のりには、「一歩前を歩く誰か」( 理論)の支えも必要です。例えば、ウォーデンの『悲嘆カウンセリング:臨床実践ハンドブック』(旧版)。ちょうどこの原稿を書いている時に、改訂版(山本力監訳、誠信書房)が出て送っていただいて、今読んでいるところですが、最新の研究も盛り込まれています。理論の学びと違い、小説や映画は、人それぞれの喪失体験をリアルに描いて、感情を追体験しながら、いわば横並びで歩きながら考える機会だと感じます。学びの入り口はどこにでもありそうです。

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