私は神田橋條治先生との教育分析的なスーパーバイスを終えて、数年後、自分や患者さんの中にもっと賢い自分が居る事が、徐々に明確になってきました。その賢い自分とは、まず、自分の中に何となく、しかし、明確に感じられる悩みの母体となる、悩みについてのある「感じ」です。それは、悩みについての内容や論理ではなく、悩みに命を吹き込んでいる、今、ここの、私の中にうごめいている「感じ」です。そして、そこに着目し、その「感じ」とよく相談する自分自身なのです。
例えば、最近、ようやく、私のライフワークである小説を書き終えました。自画自賛するようですが、割と面白い作品となり、数名の方に読んでもらい、私と同じような感想なり、それぞれの視点からの興味関心を示してもらいました。 私は、その小説に随分、時と心を使いました。ありのままに生きるというテーマが底辺に流れ、私としても思い入れが強かったのです。ところが、専門書でない本の出版は難しく、そう簡単にはいきませんでした。ある有名な出版社は、もう少し時代が早ければ出版でき、また、売れる可能性がある作品だという返信がありました。 そして、別の出版社は好意的な評価をしてくれて、何しろ長編なので、前半をもっと膨らませて一冊、間に一冊、後半で一冊の三部作ではどうかという提案でした。
その後、私は大分落ち込み、外に出るのも億劫になるほどの悩みに見舞われました。自分自身としてはこの作品に早くケリを付けたかったのです。それで自費出版することも考えましたが、そうしたとしても気が晴れない感じで、自分の悩みの感じを少しずつ、確認していきました。とても重い感じや大きな山の洞穴に閉じ込められて、なかなか出口がない、にっちもさっちも行かない感じなどが浮かび上がりました。そして、その「感じ」に対して「一体、お前はどこに行きたいのか」と、問いかけたのです。すると、その「感じ」は左斜めのとても高い所へ向かって、星のようにスーッと動き、輝いているのです。私は直感的に、この悩みから、「もっと高い所、高い次元で考えて欲しい」というメッセージを受けとりました。「私が今、あれこれ思っていることより、もっと高い次元で、豊かに考えてみてはどうか」というメッセージを、自分自身に当てはめる(言い聞かせてみる)と、何か、全身が「うん、うん」と頷いているのです。
このように、自分の「悩み感」に、体感的に相談すると、他人に相談するよりも数段質の高いメッセージを受けとったり、大切な気づきを得たりする事は少なくありません。
無論、ケースにおける悩みも、同じように自分の苦慮感に問い合わせます。 私は過去に、この心の問題の原発的な苦慮感を「原苦慮」と示しました。