編集後記・事務局だより
編集後記
この広報誌との縁は深くて、はじめて編集委員になったのは、もう十五年ほど前、大学院生の頃だった。本誌が創刊されたときのことで、編集長は一丸藤太郎先生だった。私はまだ心理士の卵未満の存在だったから、大御所とベテランが居並ぶ編集会議の片隅で大変恐縮していたことを思い出す。それでも、一つは発言しようと思って出した企画が、現在も「先生たちの卒業論文」という名前になって継続している先達にインタビューする連載だった。
この企画の担当者になったおかげで、成瀬悟策先生や氏原寛先生など、すでに鬼籍に入られた方々も含めて、多くの先人に話を伺うことができた。この学問が歩んできた複線的な歴史に触れる幸福な時間だった。
それからも、二年ほど間が空いたこともあったが、基本的に編集委員を続けてきた。沖縄にいたときは飛行機で、東京に来てからは山手線で、この一年はZOOMで、編集会議に参加してきた。そうやって会議に出るたびに思う。心理臨床学は広い。様々な学派の人がいて、様々な現場で働いている人がいる。だから、見えている風景が全然違う。意見も感性も合わない。話題は拡散する。会議は踊りつづけ、まとまらい。それでもこの多様性こそが、この学会の真に素晴らしいところだと私は思う。
普通に暮らしていると、私たちは同じ風景を見ている臨床家同士でつるむ。コミュニケーションコストがかからず、話が深まるからだ。それは確かに心のある側面を精密に見ることを可能にするが、同時に心の他の側面を見えにくくもさせる。そのとき、この学会の多様性は解毒剤になる。ミクロに見える心が実は広大であり、把握できないほどに多様であることを思い出させてくれるのだ。長く編集委員を務めさせてもらい、別の風景を見ている臨床家たちと会議卓を囲みながら、そういうことを思ってきた。
だから、今回責任編集を任されたのは、感慨深いことだった。創刊号のとき、一丸先生が苦慮しながら、テーマと執筆者を決めていた姿を思い出した。この学会の多様性を、つまり心なるものの多様性を、学会員だけではなく、一般市民に届けたい。もちろん、今号も含めて十分うまくいったとは言えないかもしれない。だけど、そういう思いで本誌は編まれ続けてきたし、これからもそのために試行錯誤を続けていくのだと思う。
(広報委員 東畑開人)
事務局だより
二〇二〇年も年の瀬を迎えています。先頃新聞で二〇二〇年を表す漢字を募ったところ「密」が最多であったと聞きました。確かにこの一年はコロナ禍で過ぎたし、今年を表す漢字に「密」が選ばれるのも当然だと思います。
学会もコロナの影響をもろに受け、学会業務や年間行事が大幅な遅延や停滞、混乱にみまわれました。その第①は学会の根幹をなす執行部が決まらなかったことです。本来は五月末に学会執行部の交代予定でしたが、以下の第②の理由から大幅に遅れることになりました。新執行部(第六期藤原勝紀理事長〔任期二〇二〇年七月~二〇二二年五月〕)の選出が七月一九日に、更に八月二日に業務執行理事(一〇名)の選出が慌ただしく、しかも夜間のZOOM会議で決まり、新執行部がようやく出航となったのです。②人事ばかりでなく、新執行部も頭を抱えた問題が、学会年間行事の中心である第三九回大会運営でした。四月にコロナの緊急事態宣言等が発出され、今大会は中止・延期かとなり、六月に解除で開催続行となるも再びコロナ第二波感染拡大の兆しの怖れと、間近の八月二七~三〇日に迫った大会開催に、学会の第五期大会委員会や横浜大会を引き受けて頂いた実行委員会をはじめ、第六期新執行部も一丸となって、大会実施の会員参集の方法と学術内容の検討と矢次早に「密」対応を決定したのです。この間、会員の皆様には開催か中止かなどやきもきした期間でご迷惑をおかけいたしました。結局、八月の第三九回横浜大会を中止とし、一一月二〇~二六日の一週間、Web形式での大会方式を採用した企画形態を、一九八二年の創設以来初めて開催することになったのです。八〇〇〇名を超えるWeb参加者があり、特に遠隔地の会員には好評であったようです。当初は、「密」を避ける感染予防の観点からのやや消極的な大会方式検討から大会を終えてみると、心理臨床本来の対面大会方式と共に、Web方式も今後は模索して行く道が開けてきたのではないかの意見が聞かれています。会員の皆様のご感想はいかがでしょうか。新しい年である二〇二一年を表す言葉は、本年と異なり明るい希望に満ちた言葉になることを願いたいものです。皆さん良いお年をお迎えください。
(副理事長 乾 吉佑)