「恋愛」の誕生は一九世紀

 私たちがイメージする「恋愛」はいつ生まれたのでしょうか。恋愛心理学研究者として有名なHendrick, SS. & Hendrick, C. (1992 )によると、現代の恋愛は、現代の前の時代であるヴィクトリア朝時代に生まれました。ただ、いきなりヴィクトリア朝時代に「恋愛」概念が誕生したわけではなく、一二世紀の「宮廷愛」からと一八世紀後半から一九世紀初期の「ロマンティック・ラブ」という二大運動を受けて誕生しました。「宮廷愛」は、神への愛が人間への愛に引き下げられたものとされ、礼儀と求愛の諸儀式によって達成される神聖な統一体を確立する関係と考えられていました。続いて登場した「ロマンティック・ラブ」では、愛それ自体に焦点が当てられるようになり、人間同士が愛し合うことそのものの価値を重視するようになりました。そして、ヴィクトリア朝時代になると、産業の発展とともに男性と比べて女性は性に積極的ではないとするジェンダー観が支持されるようになり、男女不平等な関係性における性交渉を想定した親密な二者関係がスタンダードな「恋愛」として考えられるようになりました。日本では、こうした流れを受けて、「恋愛」が翻訳語として、明治時代に登場しました(宮野、二〇一六)。従って、われわれがイメージする「恋愛」は、明治時代に外国から輸入されたものであり、歴史も浅い概念であると言えます。

 古代ギリシャでは、男性同士の恋愛にこそ高い価値があると考えられていましたし(近藤、二〇一六)、日本では、江戸時代まで、相手の体を求めることが相手を好きである証と捉えられ、現代のように肉体と心を分離して考えられてはいませんでした(宮野、二〇一六)。もしかすると、この先五〇年後、一〇〇年後には「恋愛」の中身や概念そのものが変化するかもしれません。こうした背景を踏まえて、現代の「恋愛」について述べます。

恋愛のゴールは結婚?

 現代の日本では、非婚・晩婚・離婚の増加が見られ、ほとんどの人が結婚する社会ではなくなってきていますが、今でも「恋愛」のゴールは結婚であるという「恋愛結婚」の考え方は根強く残っています。例えば、芸能人の交際に関するニュースでは、当人同士が結婚の意思を表明している交際を「真剣交際」と名づけて特別視しています。

 しかし、恋愛のゴールを結婚とする「恋愛結婚」という概念は、「恋愛」よりもさらに新しい概念で、第二次世界大戦後から一九六〇年代の間に普及したものです(山田、一九九六)。戦前までは「恋愛」と「結婚」は別物と捉えられていました。「結婚」はあくまでも家同士の契約であり公的な関係でした。一方、「恋愛」は個人間における関係性であり、私的な関係を指していました。それが戦後に、公的な関係を指す「結婚」と、私的な関係を指す「恋愛」が合わさって、結婚に結びつく恋愛が本物の恋愛であるという「恋愛結婚」という概念が生み出されました。

 なぜ、戦後「恋愛結婚」が登場したかというと、そこには、戦後の近代資本主義と高度経済成長があると指摘されています。恋愛を公的な関係に結び付けて、恋愛をした先で、男性が外で働き、女性が家事に専念するという性別役割分業に基づく結婚を多くの人が選ぶことが、経済成長を加速化させることに好都合だったと考えられています。

 この資本主義ではあらゆるものが商品化されます。人間も例外ではなく、商品として価値づけられる対象となります。恋愛市場においては、周りから「イケメン」や「美人」と評価されること、男性ならば稼ぐ能力が高いこと、女性であれば家事育児が得意であることなどが、商品価値の高い者として評価されます。こうした考え方に馴染むと、現在交際している相手よりも商品価値の高い他者が登場するたびに、交際相手を交換することを繰り返すと考えられます。

恋愛の本質

 しかし、恋愛について哲学的探究をしている精神分析家Fromm は、恋愛というのは、かけがえのない相手とのかけがえのない結びつきであると主張しています(Fromm, 1956 )。恋愛関係にある二人は他の誰とも取り替えがきかないという「排他性」という特徴をもっています。従って、〝ほかにいい人はいないかな〞と交際相手と取り替えができそうな他者を探しているならば、「恋愛している」とは言いがたいかもしれません。

 以上のことから、人間を商品化するという資本主義的な考え方に基づいて恋愛をすることは不可能であると考えられます。そして、かけがえのない関係である「恋愛」体験の多様性は、果てしなく拡がる可能性を秘めています。

恋愛をするには「愛する」技術が求められる

 ただし、誰でも望めば幸せな「恋愛」を簡単に手に入れられるわけではありません。Fromm は、幸せな「恋愛」を手に入れるためには、「愛する」技術を磨く必要があると主張しています(Fromm, 1956 )。それは、告白はデートの三回目でするとか、食事代は男性が払うなどといった、表面的なテクニックを指しているのではありません。もっと全人格的な態度を指しています。例えば、交際相手が、進学したいと切願していた大学受験で不合格となり、軽い調子で「落ちちゃった」と知らせてきたときに、交際相手の心の痛みにしっかり寄り添うことができるかというようなことです。こうした「愛する」技術は、生まれつき備わっているものではなく、訓練で磨くことができるものです。自分自身を愛おしく思い、今、この瞬間をしっかり生きることも重要な訓練の一つです。なぜなら、自分自身を真剣に愛することができることと、他者を真剣に愛することは連動しているからです。従って、いかに自分らしく生きるかということと、自分にとって幸せな恋愛関係を築くことは深く関係しています。現代は、インターネットの普及により、さまざまな形での出会いの機会が拡大し、恋愛の自由化が加速しています。そうした現代において、「愛する」技術を磨くことの意味はますます重要になっていくのではないでしょうか。

⃝ 文献
Fromm, E. (1956) The art of loving. New York:Harper & Brothers Publishers. 鈴木晶(訳)
(一九九一)『愛するということ 新訳版』紀伊国屋書店
Hendrick, S. S. & Hendrick, C. (1992) Romanticlove. Thousand Oaks : Sage Publications. 斎藤勇(監訳)(二〇〇〇)『「恋愛学」講義』金子書房
近藤智彦(二〇一六)「古代ギリシャ・ローマの哲学における愛と結婚 ―プラトンからムソニウス・ルフスへ」藤田尚志・宮野真生子(編)『愛 ―結婚は愛のあかし?』ナカニシヤ出版、二‐三五頁
宮野真生子(二〇一六)「近代日本における「愛」の受容」藤田尚志・宮野真生子(編)『愛 ―結婚は愛のあかし?』ナカニシヤ出版、一七一‐二〇五頁
山田昌弘(一九九六)『結婚の社会学 ―未婚化・晩婚化はつづくのか』丸善

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