はじめに
ここは香川県小豆島。瀬戸内海に浮かぶ離島の総合病院で、私はカウンセラーの仕事をしています。ある日、島にある何の変哲もない書店の看板を熱心に撮影している観光客らしき青年を見かけました。観光地でもないこんなところをどうして?不思議に思い声をかけると、こう教えてくれました。
「『からかい上手の高木さん』というアニメの聖地を巡礼していて、ここがその一つなんですよ。え? 観たことない? 観ないと絶対損ですよ!」
アニメ聖地巡礼
さて、本稿のテーマは「聖地巡礼」です。もともとは由緒ある寺社仏閣や宗教地に参ることを指しましたが、最近ではアニメや映画の背景として描かれた場所を訪れることなど幅広い意味で使われるようになり、2016年の「新語・流行語大賞」にはトップ にノミネートされました。
ここ小豆島も、『からかい上手の高木さん』という作品の聖地として多くのファンが訪れるようになりました。いま書店の本棚に「○○さん系」と呼ばれるジャンルの漫画・小説がたくさん並んでいますが、このブームの火付け役となったのが、『からかい上手の高木さん』です。2013年の連載開始から人気を博し、アニメ化を経て2022年には劇場版が公開されるなど現在もヒットが続いています。主人公の女子中学生高木さんと、同級生西片の甘酸っぱい関係を描いたラブコメ系作品で、背中をくすぐられるようなこそばゆい二人のやり取りが作品の一番の魅力なのですが、随所に小豆島(正確には、小豆島西側の土庄町)の風景がリアルに描かれています。
聖地巡礼は観光や地域振興と結びつき、「経済効果〇〇億円」といった大きな話題で取り上げられることが多いですが、ここでは『からかい上手の高木さん』と、その舞台小豆島をひとつの例として挙げて、聖地巡礼とこころの関係について考えていきます。
どうして聖地巡礼するのか?
書店の撮影に没頭するあまりバスに乗り遅れた青年をホテルに送る道中の車内で、このアニメを観たことがなかった私に、アニメの素晴らしさを熱く語ってくれました。
「たまたま深夜にテレビをつけたら放送していたんです。主人公の高木さんが同級生の西片をからかう。毎回ただそれだけの内容なんですけど、なぜか目が離せなくて。どんどん観ていくうちにハマったんです。今では自分の推し殿堂入りです」。
作品を調べるうちに、背景のモチーフが小豆島ということ知り、ずっと行きたいと思っていたが新型コロナウィルスの流行によりなかなか行けず、今回念願叶って小豆島に参ったようでした。島の学校やバス停など島民からすると素通りするだけの場所が、ファンからすれば遠い旅路の果てに辿り着いた聖地として尊ばれていることを知り、私はとても驚きました。聖地巡礼は、まるで推しが生きている異世界に飛び込むような体験なのです。特に小豆島の場合は船に乗って海を渡ることになるので、より日常世界から離れた「異世界感」が増すのかもしれません。
20分程度車を走らせ、ホテルで青年と別れました。彼は「ありがとうございました。いろいろしんどい時期もあったんですけど、推しの高木さんに出会えて良かったです。せっかく聖地に住んでいるのだから、一度くらいは観てみてくださいね」と笑って去っていきました。
ここからは私の勝手な憶測なのですが、聖地巡礼に参った高木さん推しの彼は、何かしら人生の難局があって、こうして小豆島に辿り着いたのではないか。「いろいろしんどい時期」の内実は分からずじまいですが、彼が語る話のところどころに、そう思わせる雰囲気がありました。
人が生きていくうえで、時折人生の困難や苦しい局面を迎えることがあります。そうした節目の時期を、心理学は「危機(crisis)」と呼びます。これまで自分が立っていた足元がぐらりと揺らぎ、支えになるような対象が必要になる。そうした時に、私たちは心安らぐ「聖地」を強く求めるのかもしれません。ただその場所に行くことのみが聖地巡礼とは限りません。巡礼の途中でアクシデントが生じることもあり得るでしょう。冒頭の彼のようにバスに乗り遅れるかもしれないし、スマホの充電が切れて道に迷うかもしれない。思いもよらない場所に辿り着き、偶然の出会いが生じる。そうした想定外の出来事を受け止めていくうちに、アニメの聖地として巡礼に来た場所が、いつしか「わたしにとっての聖地」になっていることを発見する。これこそ聖地巡礼の真の醍醐味と言えるかもしれません。
聖地巡礼と新型コロナウィルス
聖地巡礼も新型コロナウィルス感染拡大による断絶を経験しました。ファンは聖地に巡礼できなくなり、小豆島に旅行者の姿が消えました。行動制限が解除され少しずつ暮らしの賑わいが取り戻されていくなか、昨年(2022年)小豆島で象徴的な行事が行われました。島内で数年ぶりに祭りが開催されたのです。それも、『からかい上手の高木さん』の聖地である島の中学校が会場になり、アニメのテーマソングを歌う歌手のコンサートが開かれました。会場は人で溢れかえり、たいへん賑わいました。そして、この喜びを共にしようと、多くの巡礼者の姿を見かけました(高木さんグッズを身にまとうので一目見てファンだと分かります)。あの日、祭りに繰り出した多くの人たちの笑顔と、煌々ときらめく出店のライト、そして音楽。紛れもなくあの場所は「聖地」と呼ぶに相応しい場所となりました。
「わたしにとっての聖地」
私が普段行っているカウンセリングでは、相談に来るクライエントの趣味や推しの話が出ることがあります。それらは一見するとクライエントの悩みとは関係ない話題のように思われるかもしれませんが、その作品の魅力を聴いたり、時には一緒に鑑賞して味わううちに、クライエントが抱えるテーマと深くリンクしていて、その人のこころを支える重要な対象になっていると感じることがあります。
推しは、人生に彩りを与えてくれる。数あるコンテンツのなかから推しと出会い、推しの足跡を辿る巡礼の旅を通して、「わたしにとっての聖地」を見つけることができれば、それはとても素晴らしいことだと思うのです。