はじめに

 私は今、乗馬にハマっている。できることなら仕事に行かず毎日馬に乗りたいくらいだがそんな訳にはいかないので休みの度にいそいそと練習に向かっている。大好きだったお酒もほとんど飲まなくなり、朝四時起きで練習に行くこともある。乗馬クラブが山の中にあるため、夏は虻に刺され、冬は大雪で車がスタックしそうになるが、それでも負けじと通っている。馬に乗ることはとても楽しいが馬とコミュニケーションを取ることはもっと楽しい。今日はここで馬と関わることの素晴らしさについて語ってみたい。

馬との出会い

 乗馬には昔から興味があった。
元々動物が好きで中学校の進路希望調査の「将来就きたい職業」の欄に「象使い」と書いて呼び出されたこともある。それから紆余曲折があり現在の仕事に就いたのだが動物が好きなのは変わらない。2020年の春先、新型コロナウィルスの感染拡大で研修や会議が全て中止となり県外への移動も厳しく制限された。空白の予定表を見ながら私はこの時間をどうしようかと考えていた。この状況がいつまで続くのかわからないしこの先どうなるかもわからない、不安も強かったが今まで興味はあったけれど縁がなかったことをやってみようと思い至った。それが乗馬だった。
 おっかなびっくり飛び込んでみた乗馬の世界は全てが初めてのことばかりだった。私は既に中年なのだが、こんなに何もわからず何もできないという状況に置かれたのは本当に久しぶりのことだった。まず馬にどう関わったらいいのかわからないし、今まではその都度違う馬に乗って練習をしていたのだが、上達のためには決まった馬とコンビを組む方が良いというのだ。確かに馬によって歩幅やスピード、指示への反応の強弱が違うのでいつも慣れるまで苦労していた。馬が何を考えているのかもいまいちわからなかった。同じ馬とならもっと上手くやれるかもしれない。私はパートナーを決めるため人生初のお見合いをすることにした。

 三頭の馬がお見合い相手として選ばれた。面食いの私は真っ黒な毛並みが美しい一頭に内心決めていた。彼はとても美しい馬だったが、私の指示を全く聞いてくれなかった。「下手くそのいうことなどきけぬ」と彼はピクリとも動かず馬上で私は途方にくれた。すっかり忘れていたがお見合いは当然相手にも選ぶ権利があるのだった。もう一頭の馬は「ま、仕事ですから」という感じで無難に相手をしてくれた。悪くないかも。そして最後の栗毛の一頭に乗った時、馬から「こっちか?ん?下手くそだな、まあ仕方ないけど。もうちょっと頑張れよな」と呆れながらも私に協力してやろうという気持ちが伝わってきた。この時、私は初めて馬と交流しているという実感を持つことができたのだった。そしてこの栗毛の馬、イーデンとコンビを組むことに決めた。
 イーデンは引退競走馬だ。以前は私の年収など目じゃないようなお金を稼いでいたらしいが、ケガで引退し乗用馬になるべく訓練を受けた。彼はマイペースな親分肌の馬で、気の弱い馬のために馬込みの中に道を作ってやったりもする。放牧中、お気に入りの馬女子と過ごしているイーデンに「練習に行こう」と声をかけるとため息をつきながらも一緒に来てくれる。基本的に真面目なのだ。「ごめん、イーデン。デートは後にしてね」と練習に向かう。馬に乗ることはとても楽しい。楽しすぎて笑い出してしまうこともある。大人になってからこんなに夢中になれるものと出会えるなんて幸運だと馬上でニヤけながら私は考える。

馬耳東風

 しかし素敵なことばかりではない。イーデンに完全に置き去りにされたこともある。その日私はイーデンと一緒に雪中外乗に参加していた。雪深い山の中を馬で散策し、80センチは積もっているであろう雪原を走るのだ。天候に恵まれたその日は絶好の外乗日和だった。雪の中をラッセルするのは馬もキツい。スタミナのあるイーデンと私は先頭になることが多かった。「ええ、また俺が前なの」とイーデンはやや不満そうではあったが息を切らせながら森をぬけた。そこは一面の雪原だった。太陽の光が雪にキラキラと反射して野うさぎの足跡だけが可愛らしい模様のように続いている。気持ち良い。ここで優雅に走る姿を私は思い描いた。その時である。一頭の馬が突然駆け出したのだ。その馬を追いかけてイーデンは一気に走り出した。「俺は負けん!」と言うイーデンの声が聞こえた気がした。深い雪の中を彼はどんどん加速した。停止の合図を送っても全く伝わらない。ヒュンヒュンと風を切る音だけが聞こえ寒風で頰の感覚がない。私にはもう彼の背中にしがみついていることしかできなかった。その時、イーデンが雪に足を取られ私は一回転して雪の中に放り出された。幸い深い雪に埋もれて全く怪我はなかったが、イーデンは身震いして立ち上がると私を置いたままクラブの方に一目散に駆けて行ったのだった。「まって!イーデン!」と呼んでも振り返りもしない。結局山の麓で待っていたスタッフが彼を連れて戻ってくるまで、私は自分でラッセルしながら山を下ったのであった。辿り着いたクラブの馬房で私は切々とイーデンに語り掛けた。「どうしてあそこに私を置いていくわけ?一瞬目が合ったのにさ、そのまま走って行ったでしょ」彼は知らんふりで草を食み続け、完全に私の言葉をスルーしている。その時私はハッとした。これはかの有名な馬耳東風というやつではないか。昔の人もこうやって切々と馬に語りかけたのかもしれない。見知らぬ誰かとの繫がりを感じ私は胸が熱くなったのであった。

おわりに

 乗馬の競技年齢は比較的高く、エリザベス女王も96歳まで馬に乗っていたという。流石にそこまでは難しいが私もなるべく長く馬との関わりを楽しんでいきたいと思っている。

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