小田急線刺傷事件とインセル

二〇二一年八月六日に小田急線で起きた刺傷事件をニュースで見た時、危惧していたことが起き始めたと戦慄した。昨今英語圏の国々で問題視されている「インセル」による事件と酷似していたからだ。インセルとは「involuntary celibate(不本意ながら独り身でいる者)」の略で、恋愛 がうまくいかずに不遇感を抱いている男性たちを指す。彼らの利用する掲示板にはミソジニー(女性蔑視)、小田急線刺傷事件とインセル反フェミニズム的な書き込みが溢れ、中にはジェノサイド(大量虐殺)を起こす者もいる。二〇一四年にカリフォルニア州の大学で起きた銃撃事件では、六名が亡くなり、十四名が負傷している。加害者の男性はインセルを名乗って女子寮を襲撃。事件直前に恋人ができないことへの欲求不満、女性への憎悪を YouTube で発信していたという。小田急線で起きた事件の加害者である対馬悠介が警察の取り調べで語った「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」「(事件で重傷を負った女子学生が)勝ち組の典型にみえた」という供述が、インセルの発信と重なって聞こえた。 

パワーを持つ男性が女性をコントロールするためになされる典型的なジェンダー暴力とインセルによる事件が大きく異なるのは、彼らが自らを社会で虐げられた存在であると規定している点だ。実際、非正規雇用の増加や賃金の低下、生涯未婚率の増加など、男性の境遇はここ数年で大きく変化し、過去できていたことができなくなったという相対的な剝奪感を抱く男性は増えている。未だ女性のほうが冷遇されている社会構造があるにもかかわらず、その剝奪の根拠を、つまり自身の境遇を変化させる力を女性たちが握っているという主観世界を持っている点に、インセルの特徴があると指摘されている。それは「勝ち組」として女性を想定し、恨みの対象とした対馬にも共通していると言えるだろう。

小田急線の事件の後、いくつかの報道機関から取材依頼が来た。これまで私が恋愛から疎外されたり、社会的に孤立したりする周縁化された男性たちの苦悩と加害性について研究してきたからだろう。私は頭を抱えた。この事件をどのように扱ったらいいのか迷ったからだ。

ジェノサイドをめぐる二重の切断

多人数に対する殺傷事件は、たいていお決まりの型によって分析される傾向にある。加害者の心理的傾向や生い立ち、境遇、社会的属性を取り上げて、その点を先鋭化して原因分析を行うものである。オタクであること、非モテであること、ひきこもりであること、精神病理があること、周りを省みる必要のない「無敵の人」であることなど。加害者像を作り上げ、普通ではない特殊な社会集団の問題として囲い込んでしまう言説実践が積み上げられていく。

一断片しか切り取らないこうした早計な解釈に対して、大きく二つの批判の声が上がる。ひとつは加害者個人や一部の社会集団にのみ原因を帰することで、社会全体に蔓延する問題を無化してしまうことに対する批判である。二〇一七年に起きた相模原障害者殺傷事件の際、加害者である植松聖が抱いていた優生思想は誰しもが持ちうる、という議論が盛んに行われた。「自分には関係ない」と加害者を切り離してしまった瞬間、社会に遍在した差別性や加害可能性の問題を見過ごすことになってしまう。

もうひとつは加害者の属する社会集団に対してスティグマを付与することへの批判である。例えば、小学校のスクールバスを待っていた児童やその保護者たちが殺傷された川崎登戸通り魔事件(二〇一九年)では、加害者がひきこもり傾向にあったと報道された。ひきこもりに対する差別的な声が盛んに発信され、当事者団体や専門家から「ひきこもりは犯罪者予備軍ではない」という声明が出される事態に発展した。それはひきこもりという社会集団への偏見を増幅させないための措置だった。

しかしこの批判は第一の批判と矛盾をきたす。その社会集団は自らに向けられたスティグマを回避するために、犯罪を実際に起こした個人を集団から切り離し、彼/彼女にのみ問題を集約するからである。ここには二段階の切断がある。社会から切断された社会集団はその内部で個人を切断する。その時、私たちは社会全体に潜む問題だけでなく、ひきこもりという現象の全体像さえも見逃してしまいかねない。なぜなら、特定の個人を切り離した社会集団は、スティグマを避けるのと引き換えに、 過剰に「善良」でなければならないという足かせを強いられることになるからだ。ちょっとした加害行為について語ることはおろか、自身の持ちうる恨みや嫉妬の感情さえ、おくびにも出してはならない。だって私たちは「犯罪者予備軍」ではないのだから。結果的に、他者への恨みや怒りを抱える者は、社会の中で沈黙し、集団の中でも沈黙する。ジェノサイドの種子はこうして秘匿され、誰にも知られぬままむくむくと育ってしまう。

小田急線の事件の依頼を受けた時、私は同様のジレンマに陥った。事件と周縁化された男性の問題を関連させて語った場合、それは一部の男性を加害者予備軍として描き出すことを意味した。一方、「今回の事件は犯人の特殊性によるものである」と言うことは、恋愛から疎外されていることを深く悩んだり、時に他者への恨みや嫉妬の感情を抱いたことのある男性たちのリアリティをないことにしてしまうことに他ならなかった。スティグマを付与するか、それともリアリティを無視するか、私は難しい選択を迫られ、結局取材をすべて断った。  

ジェノサイド対策としての臨床に向けて

こうした袋小路に挑めるのが臨床という営みなのでないかと思う。例えば加害的な衝動性を燻ぶらせているクライエントと出会ったとしよう。心理学はどうしても問題を個人の心理的傾向や障害、病理などに帰する傾向にあるが、臨床家がそうした姿勢をとれば相手は自身の問題を詳細には語らなくなるだろう。異常な存在として括りだされてしまうのを恐れるからだ。また、たとえマクロな社会的視野を導入したとしても、「男性は生まれながらに有害である」という本質主義的な解釈に陥ったならば、いたずらに偏見を生産するだけにとどまってしまう。

確かに昨今起こっているジェノサイド事件の多くが、不遇感を抱える男性によるものである。しかし、社会的に不遇であることや、男性であることを、加害の原因ではなく、あくまで加害行為を導く作用であると捉えてみる。その上で、不遇(感)はどのようなプロセスによって形成されてきたのか、男性性はどのような影響を与えているかなど、問題のマッピングのきっかけとして用いる。いわば社会的属性や境遇を、スティグマとしてではなく、自己理解のための鍵として利用するのである。取り除けない原因ではなく作用と見なせば、そこから距離を置く道筋を考える余地も開けてくる。単純なレッテル貼りに終始せず、社会的な作用と個人のリアリティをつかみながら、共同的に変化の道を進んでいく。こうしたジェノサイド対策としての臨床を立ち上げる必要があると思う。

 

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