はじめに

 矯正施設で過ごす非行少年や受刑者に対する心理支援に携わって十六年ほどになります。個別の心理面接のほか薬物離脱に関する指導など、それはいくつかの心理支援業務を通じての関わりです。ただし、わたしは施設外部から訪問する形式で彼らと関わるのが常となっています。つまり、矯正施設と施設外での臨床を行ったり来たりしながら対象者と関わり、わたしがどのように「彼ら」を捉えるようになったのか、その過 程を振返ってみたいと思います。そして、本稿のテーマである「無敵の人」を、どのようにわたしが把握しているのかについて考察したいと思います。

「モンスター」を出現させる「怖さ」

 さて、ここでは矯正施設での具体的な心理臨床活動ではなく、もっと単純で、もっと基本的な気持ちに着目したいと思います。それは、支援者が会うことになる「彼ら」が、非行や犯罪に手を染めているということです。これまでの経験を振返ると、彼らに向けて抱く印象は、わたしのなかで随分と変わっていきました。

 よく、社会的に許されざる行為をした彼らに対して、「許せない」気持ちを抱きやすいと聞きます。確かにそれは容易に想像できますし、湧いてくる気持ちとして妥当なものです。しかし、もっと当たり前に生じるにも関わらず、スポットが当たらない気持ちがあるように思います。それは、「怖さ」です。実際の臨床業務の中で、収容されている彼らにわたしの個人的な情報が知られぬよう気を遣いますし、無用な危害が及ばないようにせねばという構えは強くなります。それらの態度を引き起こすものはいったい何でしょう。―それは、支援者がダイレクトに感じる「怖いな…」という気持ちです。

 その瞬間について、実際の例を挙げましょう。彼らの多くは、上着の袖から紋身(入れ墨)が見え隠れし、夏になればそれが部分的なものではなく全身に施されていることに気付きます。これは珍しいことではなく、矯正施設の中ではごく当たり前の光景です。それをはじめて目にした瞬間、わたしは平静を装いましたが、内心平気ではいられなかったはずです。その怖い気持ちは、わたしにさまざまな影響を及ぼしたと思います。

 矯正の領域に関わった当初の頃の記憶を辿りますと、不思議な感覚があります。支援者として関わった方々はそれなりにいるのですが、彼らのことを鮮明には覚えていないのです。これはどういうことなのか…。もちろん、古い記憶は思い出すのが難しいですし、他にもさまざま忘却の理由はあるでしょう。ただ、気になることがあります。当時のわたしは、「怖さ」に覆われていたはずです。そして、怖さに覆われたわたしの目の前にいた非行少年や受刑者は、モンスターでしかなかったのです。そのモンスターが各々もっている個別性は、わたしの頭に浮かびませんでした。怖さに覆われた得体の知れなさが際立つ存在だったのです。だから、当時の「彼ら」への記憶が薄い…。そんな解釈も成り立つように思います。

 ところが、わたしの頭に浮かんだ「怖さ」は、しばらく経ったのちに不思議と気にならなくなりました。繰り返し目にするので見慣れるものであると説明するのは簡単ですが、一体なぜでしょうか…。一つは、矯正施設の管理拘束力がとても強いからです。矯正の場では保安が崩れることがもっとも重大な事態ですので、厳格で非常にしっかりした枠組みが構築されています。そのことを実感すると、彼らと関わっているわたしを、この厳格さが守ってくれていることに気がつきます。この気づきによって、わたしの怖さは影を潜めます。強力な力がわたしに馴染み、その力を後光のように背負うことで得られる安心ですから、よくもわるくも彼らに影響を与えるでしょう。これについてはいろんなところで指摘されています。

 ここでわたしが着目したいのは、別の理由です。それは現実的に構築された強固な構造のみならず、心理専門職が持つ特性にまつわることです。心理専門職は、彼らの背景を辿ることに従事するのが生業です。それにより、彼らが非行や犯行に至った道筋や生き抜いてきた過程を辿ろうとします。この理解がすすむと、彼らが今に至ってしまったことにはそれなりのワケがあることを知ります。これとともに、わたしの怖さは減じました。

 つまり、わたしの目に当初映った対象は得体のしれない存在であり、いつこちらがやられてもおかしくないモンスターだったのです。得体のしれないモンスターの背景をとらえられるようになった時、支援をすることのできる『彼ら』がそこに出現します。この体験を得るまで、わたしには時間が必要でした。

「モンスター」が『彼ら』になる

 ―場面を移します。矯正施設では昨今、再犯防止の観点から非行や犯行の種類に応じて様々な指導が用意されており、わたしもその指導の一端を担っています。実施される指導は課題が各単元として決まっています。当初は実施にも不慣れなので、滞りなく進めることに骨が折れました。しかし何度も繰り返し取り組むと、ワークの流れはわたしに馴染み、彼らに投げかける発問や、取り組むべき課題は浸透していきました。これにともなって、ワークのどこが山場になりやすいか、わたしにも予測が立つようになりました。

 モンスターではない『彼ら』が現れると、彼らから漏れ出る色んな意味に興味が向くようになりました。ワークをこなすことに苦心していたときは気がつきませんでしたが、彼らの発言様式には、人柄といいましょうか、その人なりの型がにじみ出ているのです。つまり、彼らが問題行動を引き起こす部分的特性だけでなく、彼らの生き方や価値観がそこに映し出されていました。

 ―わたしが薬物の問題をもった人と共にしたグループワークでのことです。当初彼は、現状に至った深刻さを感じてはいませんでした。「自分次第ですよ」が彼の口癖でした。彼は腹立たしい気持ちを収められない課題を抱えていたのですが、それを解消するために薬物を使っていました。かつての結婚相手との関係も、結局は日常の諍いにより破綻してしまいました。良い思い出ではなかったので、彼はそれに触れることは一切ありませんでした。しかしグループワーク終盤で、破綻した時の話題を彼は他のメンバーを前にして口にしたのです。彼の思いやりが彼女に伝わらず、最終的には相手のそっけない態度に彼が痺れを切らす内容でした。それを聞いた他のメンバーがつぶやきました。「思いやりって、何なのかね…」―彼は何も答えず、静かでした。特別なやりとりが起きてはいなかったのですが、その後、単元が変わりつつ進む中で彼の口から「相手あってのことなんだよな…」という呟きが多くなったのでした。

さいごに

 恐怖をモンスターへと置き換えることなく、そこに「彼ら」の個別性を見出すことで事態は変わる― そんな結論を安易に言うと怒られそう です。実際のところ「彼ら」は、娑婆の人間関係のなかで再びモンスターとして召喚され、何度も矯正施設に戻ってくることは珍しくないのですから。しかし、「モンスター」という「無敵の人」を生み出す一つに、彼らを見るわたしたちのまなざしが関与していることを、こころに留め ておきたいものです。 

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