男性の被害はなぜ増えた
親密なパートナー間で起こる暴力がドメスティック・バイオレンス(以下、DV)です。2018年度に警察庁が把握したDV被害件数は過去最多の約7万7000件で、被害者の約20%は男性でした。男性の被害者数は五年間で二倍を優に超え急増しています。最近は男性DV被害者専用の自治体や弁護士事務所の相談窓口を目にするようになりました。
この事実から女性がDV加害の領域にこの数年で急に進出してきた、と結論付けるのは早計です。男性へのDVの加害者が全て女性とは限りません。同性間のDVや相互に暴力があるカップルもいます。越智ら(2015)は未婚の男女のデートDVを調査し、「身体的暴力」、威嚇を含む「間接的暴力」「支配監視」「言語的暴力」「性的暴力」「経済的暴力」「つきまとい」の被害経験は、性的暴力以外は男性の方に多いと報告しています。妊娠や出産は女性へのDVの契機になることで知られます。それでも結婚すると男性への暴力は一転して急減し、女性だけがさらに受けるとは考えられません。被害件数の増加は、以前からあった女性から男性への暴力がDV被害として認められ、被害だと申告できる社会への移行を示すものでしょう。
〝男を上げる、下げる〞とは、男性の社会的面目にまつわる表現です。今でも世間に対して〝男を上げる〞のは、たとえ傷が残るほどの身体的暴力を女性から受けても、「つい感情的になっただけ」とかばい、心身にダメージを受けない男性です。しかしこの例の性別を入れ換えれば、被害の深刻さを否定する女性を周囲は心配し始めるでしょう。男性の暴力被害の深刻さを自動的に割り引いてしまうバイアスは、まだ根強くわれわれの社会に残っています。教育現場では今でも「男の子は女の子を叩いてはいけません」と小学生から教えます。これは「叩いて暴力となるのは力の強い男性だけ」で「力の弱い女性の暴力は強い男性のダメージにならない」というメッセージです。暴力をふるう女性もその被害男性も同様のメッセージに触れて育ち、それを判断基準として取り込んできたはずです。男性DV被害者に特有の辛さは、社会が期待するこのような〝強い男性〞像に、傷つき〝弱い被害者〞である事実が合致しないことです。女性の暴力でダメージを受けたと認めることは、〝男〞としての面目を失い恥ずかしい事、とこれまでは捉えられがちだったのです。
ジェンダーの持つ影響力
このように「○○するのは男性/女性」という考えは、社会的・文化的に形成された性別、すなわちジェンダーに基づく役割期待や分業意識です。○○をしなかったからといって暴力を受けてよいはずがないのですが、DVでは加害行為の正当化によく使われます。例えば「男のくせに充分稼いでこない」から夫を罵倒した、といった正当化です。パートナーの人権を尊重せず、自分の期待通りに動かそうとさまざまな暴力を使うのがDVです。先ほどの○○の部分は加害者の一方的期待で随時変更されます。そのため実際に「妻なのにマヨネーズを準備しない」という理由で、夫が身体的暴力を振るう事態が起こりえるのです。男性のDV被害は女性のそれと別物ではなく、合わせ鏡のようにDVの背景にあるジェンダーの影響を映し出します。男性のDV被害数の増加は、このジェンダーに基づく伝統的な役割期待
に変化が起きていることを告げています。少なくとも「男性はDV被害を受けない」という考えはこうして変わってきているのです。
●文献
越智啓太・喜入 暁・甲斐恵利奈ほか(2015)「改訂版デートバイオレンス・ハラスメント尺度の作成と分析⑴ ―被害に焦点を当てた分析」『法政大学文学部紀要』71、135‐一47頁