「心理臨床学」とは何か。専門家やプロを自認する者にとって、自分が専心している業の本質とは何か、という問いに本気で答えるのはそうそう簡単なことではありません。特に、心理臨床学という学問は、多くの人にとっては大学で初めて触れる学問であり、また、そもそも目に見えない「心」を扱うことからも、なかなか自身の中に確かな手応えが得られにくいようなところがあります。さらに、そこに「臨床」という新規な概念が加わることで、さらにその答えを見つけ出すことは難しく複雑になっていきます。心理臨床の実践に自ら携わると、そのことはより実感されるでしょう。学べば学ぶほどわからなくなってくる。臨床心理学とはどう違うのか、そもそも心理学とは? 臨床学とは?などと考え出すと、もう何が何やら…。

「臨床の知」に身を置くこと

 心理臨床学会に設置されている教育研修委員会は、その名のとおり、このような心理臨床学という学問の「教育研修」について検討し、学会員が個々の臨床実践を学術的に展開するための教育研修を進めていけるよう、その土台づくりとコーディネートを行う役割を担っています。本学会はすでに30年以上の歴史があり、これまでも様々な教育研修システムの創案や研修会の実施を行ってきましたが、関係する対象や領域が広く、その本質が捉え難い心理臨床学は、いまだにはっきりとした教育研修の決定版のようなものを持っているとは言えません。
 そもそも学問というものは、動かしようのない結論や決定版が出てしまったらそれで試合終了になってしまうので、このような不完全な現状であることには大きな問題はありません。もしかしたら、そこをやや期待外れに思われる方もおられるかもしれませんが、学問とはそういうものなのです。ともかく、そんな前提の中で、私たち教育研修委員会は、この心理臨床学の教育研修はどうあるべきか、何をするべきか、について検討してきました。
 心理臨床学の教育研修に決定版はないとは言え、現時点で私たちが仮説的に同意を得ていることはいくつかあります。
 最初に挙げられるのは、心理臨床学は現場の実践に基づいた学問であり、学問的議論の根拠には、常にクライエントやそこに携わる心理臨床家の内に生じた体験的事実がなければならない、ということです。
 少し抽象的な表現をしてしまいました。つまり、本学会の学会員はご自身でそれぞれ心理臨床の実践現場に身を置いているか、その体験を持っている方です。抽象的な論理で語れることや、理屈ではこうなるはずだということが、実践の現場ではまったく通用しないときに、多くの方が日々直面しておられます。心理臨床学の新しい知見は、そのような現場の最前線で探索されていくものです。実践現場に身を置く心理臨床家が困難な場面に直面したときには、ただテキストや文献にその解決方法を求めるだけでなく、これまでの学問的知見が示すことと目の前の事例やクライエントの示すこと、その両方を照らし合わせながら、改めて自分自身の考え方や在り方までを問い直してみること、これこそまさに心理臨床学の学問的営みの特徴と言えるのではないでしょうか。
 「天文学について書かれたものを読む人は、宇宙に関するわれわれの知識が曖昧にぼやけてくる限界を示されても、失望したり、天文学を軽蔑したりはしないであろう。ところが心理学だけは違うのである。心理学という分野では、学問研究に対する人間の持って生まれた不適格性があますところなく現れてくる。人々は心理学から知識の進歩を求めるのではなくて、何か別の満足を求めているように見受けられる。解決されない問題があればあったで、不確かな点を自分で認めれば認めたで、そのつど心理学は非難されるのである。(S, Freud 1932 『精神分析入門(続)』序より)」
 かのフロイトが上記のように述べているように、私たちの学問研究というのは「われわれの知識が曖昧にぼやけてくる限界」に生まれてくるものだと思います。私たちはそこに「満足」を求めるのではなく、現場の心理臨床実践に立ち戻り、クライエントと共に見つけ出した小さな発見を同じ心理臨床家同士で共有するときにこそ、「臨床の知」の進歩に参画することができるのではないでしょうか。

「辺縁」に活きる心理臨床学

 また、心理臨床学の教育研修において大切なことは、心理臨床学は「辺縁 marginal」に位置する人間の営みに生まれるものを対象にしているということです(皆藤章 2023 心理臨床学の温故知新 心理臨床学研究 41巻1号 pp.1-4.)。「辺縁」という言葉もまた難しい表現になりますが、ここでは人が生きる心の世界の「片隅」「境界」「マイノリティ」といった言葉を総合して「辺縁」と呼んでいます。
 現代社会の日常の中では必ずしも目が向けられにくい事実にあえて目を向けていくことが、心理臨床の大切な専門性です。面接室という個室で、あるいは目の前のセラピストだけに小さな声で語られる心のテーマが、人間の普遍的な心の在り様や、この社会の辿る未来を真っ直ぐに表していることがあります。権威的な議論や大きな物語からはこぼれ落ちてしまう小さな声を聴き取り、自らもまた辺縁に身を置くことで見えてくるその意味を言葉にすること。これもまたとても難しいことです。少なくとも、一人ではできることではありません。心理臨床家(セラピスト)は、この小さな声が語られる場を設え、語られるに足る姿勢と構えをとることで、クライエントとの細やかな協働により、ようやくその声を拾うことができます。
 本学会の教育研修委員会では、先の第7期に「地域・現場レベルでの『心理臨床学』研究の活性化」をそのミッションとして定め、山梨、北海道、福岡での第14回~第16回地区研修会のコーディネートとそのバックアップを通じて本学会固有の教育研修の新しい体制構築を試みてきました。その元になっているコンセプトは、ここまで述べてきたように、心理臨床学の知が各地域の各現場に生じる「辺縁 marginal」の営みに見出され、それを個別の事例に照らして検討し、その過程を体験的に共有することが、私たちの教育研修そのものだという考え方になります。
 新しい第8期の教育研修委員会でも、日々の心理臨床活動の実践から得た「辺縁」の知を起点とした学術的交流の機会作りを推進すべく、理事・役員のみならず各地区・地域の社員(代議員)の先生方にご協力をいただきながら、心理臨床学会らしい教育研修のあり方を学会全体で協働しながら模索していきたいと思っております。冒頭で挙げた「心理臨床学とは何か?」という問いへの答えは、日々の心理臨床実践の中から生まれた小さな声を、私たちが互いの協働によって育み、言葉にしていくことで見えてくるように思います。そして、そこに自ら参加し、語り合うことそのものが、心理臨床学の教育研修となるのではないでしょうか。

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