嫌いな食べ物
読者の皆さんの嫌いな食べ物は何でしょうか?
私があいつと出会ったのは小学3年生の頃でした。
銀の皿に盛られた赤い物体は、若干てかっている。芋虫を赤く染め上げたようにしか見えない。しかも、ほんのりと生臭い。私の中のアラートが鳴る。口に入れてみる。「なんだこれ」。思わず声が出る。食べられたものじゃない。でも、残したら昼休みに外に行けない。何とか飲み込もうとする。ああ、ダメだ。あまりに気持ち悪くて吐きそうになる。
これが、私と「エビチリ」の出会いです。以来、私はエビが食べられません。
「好き嫌いは良くありません」
小3の担任の口癖でした。給食で出されたエビチリを、私は毎回吐きそうになりながら食べました(なぜか給食によく出たのです)。その後も同じような言葉を何度も聞くうちに、何となく悪いことをしている感覚を抱くようになりました。
20歳のとき、私は突如「好き嫌いをなくそうキャンペーン」を始めてみました。大人たる者、好き嫌いをしていてはいかん、と思ったからです。大嫌いなエビも積極的に食べました。
でも、ダメでした。嫌いなものは嫌いなのです。段々と面倒くさくなって、「甲殻類アレルギーなんで」という便利な言葉を開発しました。しかし、私の心の中にはごまかしに伴う小さな罪悪感と「好き嫌いをする自分は未熟」という感覚が残り続けました。
好き嫌いは良くないのか?
生きる上で深刻な支障があるわけではないし、人に相談するほどのものではない。けれど、小さな棘のように疼き続ける「食べ物の好き嫌い」。皆さんはどう捉えているでしょうか?
数年前、“給食は残してはいけません文化”を問題視する報道がありました。ぼんやりとニュースを見ながら、私はそもそも好き嫌いはいけないのか?について考えてみました。
「栄養が偏る」「食べ物がもったいない」。これまで何度も言われてきた言葉です。どれももっともらしいけれど、よくよく考えてみれば理に適ったものではありません。エビを食べなくても他のもので栄養は補えますし、エビ好きな人に食べられた方がエビも嬉しいはずです。と考えていくと、私の中にあった小さな疼きは「食べ物の好き嫌い」にあるのではなく、食べ物の好き嫌いについて世間で語られている「そういうものだ」に由来するのかもしれません。
私たちは知らず知らずのうちに思い込んでしまいます。大人の善意はときに小さな呪いの言葉になるのです。大切なのは「なぜ、そうなのか」を説明することです。理由や目的を説明できない大人の話は聞かなくていい、とエビチリを食べている小3の私に言ってあげたい気分です。
「好き嫌い」から学んだこと
「エビチリ」から学んだことは、「好き嫌いは良くない」という常識的なルールは理由を突き詰めると案外に重要ではないということです。
このことは好き嫌いに限りません。「友達は多い方がいい」「みんなに合わせることが大切」といった学校で学ぶ大部屋主義的な発想に、私たちは知らず知らずのうちに苦しんでしまうことがあります。だからそんなときは、まずは前提となっている「常識的なルール」(=そういうものだ)を疑ってみることが大切なのではないでしょうか。
と、息子に「どうしてキノコ食べなきゃいけないの?」と問われ、「確かに何でだろう」と答えに窮して困り果てている大人の私は思うのです。