完璧主義の人の生きづらさは、自分や他者を許すこと、認めることが難しいところにあります。何かをやり遂げても、もっと頑張れたのではないか、もっといい結果があるのではないかという思いに迫られたり、できたことよりもできなかったことに目が向いてしまったりします。また、周囲は自分にもっと高い水準のことを求めていると感じることもあります。こうした完璧主義な傾向はうつ病や不安、強迫性の症状など、様々なメンタルヘルスの不調に結びつくと言われていますが、著名な心理学者であるアドラーが、完璧であろうとすることは成長のために必要だと述べているように、完璧主義は質の高い仕事を生み出すのに役立つ長所とみなされることもあります。
ところで「完璧」という漢字、カンペキに書くことができるでしょうか?「璧(ぺき)」という字は一見すると「壁(かべ)」のようにも見えますが、下の方にある部首が「土」ではなく「玉」です。「傷のない宝玉」が完璧の語源です。このことを念頭に「完璧主義」をイメージすると、自分や自分のやったことに少しでもミスや不十分な点があってはならないと必死に守っているような姿、少しでも傷がついてしまうとパニックになったり、ひどく落ち込んだりする姿が思い浮かびます。「完璧」という語を辞書で調べてみると「ひとつの欠点もないこと」「完全無欠」という意味が出てきますが、完璧であるという理想を実現しなければという思いに駆られて、必死に生きているのが完璧主義の人なのです。
ところが先に述べたように完璧主義がよい方向に働くことと悪い方向に働くことがあるわけですが、その分岐点はどこにあるのでしょうか?それがわかると、私たちの中にある完璧主義と付き合っていくためのヒントが得られるかもしれません。
よい方向に働く、すなわち適応的な完璧主義者の場合、自分の能力を踏まえ、達成可能な目標を設定することができ、自分自身を高めたいという気持ちを持ち、楽観的で、喜び、向上心を持つ傾向が強いとされています。一方で悪い方向に働く、すなわち不適応的な完璧主義者の場合は達成困難なことを自分に求め、達成できてもそのことに満足せず、失敗への恐れ、不安、不幸などを感じやすいとされています。こうして見てみると、適度であることが大切なようです。日本の完璧主義に関する研究をリードしてきた研究者のひとりである桜井先生は、完璧を目指すもののそれは理想であり、理想に近づければよいと考える「完璧志向」という概念を提案しておられますが、これも適度であることを言い表したものだと言えるでしょう。
では、どうしたら適度な完璧主義になれるのでしょうか?実は完璧主義に関する書籍はたくさん出版されており、そこにはそれぞれの著者が考える完璧主義との付き合い方や完璧主義の和らげ方などが書かれています。ここではそうした内容を網羅することはできませんが、私は適度な完璧を「それでいいよ」と認めてくれる人の存在の大切さを提案してみたいと思います。本当は適度に完璧であることを自分自身が認めてあげることができるといいのですが、長い間、完璧を求めてきたあなたが自分だけでその感覚を緩めることは難しいかもしれません。そんな時、あなたのことを見ていて、「まぁ、それくらいで大丈夫だよ」と言ってくれる人がいると、自分に適度な完璧さを認めやすくなるかもしれません。しかし完璧を求めてきた人は誰かに頼ることもあまり得意ではないでしょう。もし、身近にそうした人が見当たらない、身近な人には求めにくいという場合にはカウンセラーの活用も考えてみてもらえればと思います。