( 「ながら族」 )

 五〇年前、「ながら族」とは、ラジオを聴きながら同時に勉強しているという、私たちの世代を形容するものでした。そして私には、言動に「あれとかこれとか」と、同時に最低でも二つの流れがあって、これがまとまらないことがあるのです。そのため、学校の先生たちに「注意散漫」とよく言われ、青年期にはこのどうしようもない傾向を私は「ながら族」と結びつけていました。
 しかし、人生は進むにつれて広い道から細い道に入っていくのが常識とされています。世間では一つの山をきわめるのが偉くて、二つの山を一度に登ろうとするのは、二兎を追うものは一兎をも得ず、と言うように否定されます。
 やがて私は臨床の世界に入って、精神分析に出会い、この性格的問題の理由のようなものに出会いました。それは、心のあり方として、無意識的な願望と、意識的な自我(わたし)の志向が、矛盾しているので、まとまりが悪いというわけです。つまりは、あれやこれやと拡散していく心の広がりを感じながらも、同時にそれと並行して、それらを注意してまとめあげようとするという意識的な傾向が存在すると考えられるのです。人は、前者の拡散傾向を「無神経」ととらえ、後者の統合傾向を「神経質」と呼びます。

( 歌いながら考える )

 もちろん大人になるにつれ、体験的に注意散漫では失敗しやすいということもわかるようになりました。他方ではこれで関心が広がり、視野が広くて俯瞰的にものを見ることができ、あれこれ面白いことに興味が生まれるので楽しいのですが、他方で間違いやミスが起きるので、この状態はいけないことだと思っていました。
 こうして、私の無神経と神経質、集中する思考と散漫な心という二種の自己状態について、私の自己評価もまた変化するのです。片方ではあれこれ関心を広げてまずいと思いながら、他方でぼうっとしているのも気持ちがいいし、これでいいじゃないかと感じるのです。人間に関心が向かいながらも、目の前の景色にも料理にも、あるいはそこに吹いているそよ風にも関心が向かうという、注意散漫について、私自身の肯定と否定という評価が入れ替わるのです。
 若い頃は神経質と無神経のまとまりのない交替だったのですが、私全体がその「どっちも」なのだということを堂々と言えるようになったのは、学問的には精神分析のおかげですが、実際には音楽、それも歌のおかげだと言えるのです。というのは、私の音楽活動では、歌いながら考えるということが起きるのです。特に私は作詞を担当しながら、音楽活動を行っているので、曲を聞いて歌詞を考えるというのは、若い時からずっと続いている営みなのです。
 そして、好みのジャンルであるフォークソングでは、ギターを弾きながら、自分の歌を歌う場合もあります。そういうとき頭では真剣に考えながら口では気楽に歌うということで、自分の神経質と無神経の全体性が回復し、日常ではバラバラな自分が統合されるのを感じます。普段は自分に極端な傾向の両方があるとは感じていたのですが、その全体を比較的肯定的にとらえてくれたのがフォークソングだったのです。
 しかし日常では、歌うと考えなくなり、また考えると歌えなくなることが多いのではないでしょうか?次に書くように、人びとはその片方を選び、「中間のない」偏った考え方になりやすいことも理解したのです。

( 事例 )

 心理療法で出会った四〇歳代の女性研究者のことを話しましょう。相談された際の日常の大きな悩みは、権威者の前に出ると「頭が混乱する」ということでした。対面の週一回の設定で、私たちは語り合いました。
 最初の頃の大きな特徴は、ひとかたまりの話をすると、長い空白が生じることでした。最初は、この意味がお互いに分からなかったのですが、やがて、見えてきたことがあります。話していると話がなくなるので、彼女は頭の片隅で隠れ、やがて考え直して、立て直して、再び外に出てくるという、表と裏の分裂のようなものがあるということでした。
 それはまるで「兎と亀」の分裂のようであり、表の兎は忙しく働いて消耗し、裏にはゆっくり考える亀がいて、それが入れ替わって登場するのですが、二つはただすれ違っていたのです。実は私にもこの分裂があり、昼は兎で、夜は亀になるなあと自分でも自覚したことがあります。
 さらに新たに分かった面白い問題は、音楽が好きな彼女が歌えないことでした。彼女がメロディやリズムに合わせると歌えなくなると言うので、私は思いついたのですが、私自身は、この歌うこととメロディやリズムを聞くことの二重の活動を、歌う時に同時にやっていると気がつきました。とくにステージの上で、私はリズムに乗る兎と、考える亀とは出会い、歌いながら考えるという二重性の統合が起きているのです。彼女と話しながら、私は自分のことを考えていました。
 それで、私は彼女にこう言ってみたのです。「メロディに合わせて兎をやりながら、亀の歌を歌うという、人前に出ながら自分を出すという二つが同時にできないのですね」。
 治療で歌を一緒に歌ったわけではありませんが、歌えない彼女と私は音楽療法みたいなことをやっていました。ここで私は彼女に教えられたことがあります。
 それは、ここでも自分が人前で話す時に重要なのは、話しながら考えることができるという二重性でした。ところが人前に出ると、相手に合わせすぎてしまい、自分の考えがなくなりやすいのです。つまり、「のみこまれてしまう」ということです。

( 全体性の回復のために )

 日常では考えることと歌うこと、この二つは両立しないということが多いでしょう。歌うと考えにくくなり、考えると歌いにくくなるという体験はありませんか? それは、ほとんどの方が作詞家ではなく、歌う時に考えないからです。しかしもし、歌の作詞を行うことになると、突然考えながら歌う必要が出てきます。
 例えば、私が友人と遊びでやってきたゲームがあるのですが、カラオケに行って既存のメロディに新しい歌詞をつけながら歌ってみてはいかがでしょう。この「クリエイティブ・カラオケ」では、考えながら歌うことになりますが、簡単ではありません。考えないまま、ただ同じ歌詞を歌わねばならないという呪縛から逃れられず、自由な替え歌の遊びに参加できないのです。それって、人生の不自由さを象徴しているかのようです。
 人生って、歌うことと考えることが両立する時こそ、自分がまとまっていると感じます。そういう機会を得られたことに私は感謝し、音楽仲間を友人に持ち、そこで作詞家でいられた時間を実に幸せに思うのです。それは、私にとって楽しくて苦しい治療だったのです。

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