人見:今日は「心」の話をしたいと思っていまして、長州さんには「俺に聞くなよ」とか言われそうなんですけど・・・・・・。
長州:うん。反対にこっちがプロフェッショナルの先生に聞いてみたいよね。先生はイギリスにいたとき、何の勉強をしていたの?
人見:精神分析的な領域ですね。
長州:イギリスというのは、そういうのが結構・・・・・・。
人見:フロイトという人がいてですね。
長州:ああ、何か聞いたことがある。
人見:フロイトはユダヤ人だったのでナチスの迫害を受けて、最後はロンドンに移住して亡くなったのでお弟子さんたちがたくさんいて、そういう意味では本場なんです。
長州:その・・・・・・心理学というのは自分に「問う」わけですか?
人見:やっぱり自分のことが一番わからないので・・・・・・。
長州:えっ?自分のことは自分が一番わかるんじゃないの?違うの?

人見:「なんで自分はまた同じことをやっちゃうのかなあ」なんていうときがあったりしませんか?
長州:ああ。まあ自分というか、それが人間なんじゃないの?
人見:はい。でもそれを「なんでそうなるのかなあ」と考えていくところが精神分析的な世界にはあるんです。まるで答えのない世界に毎日毎日いるという感じで、そこで目の前のクライエントさんの話を聴いて・・・・・・。
長州:相手が少しでも悩み事から抜け出せるようにアドバイスするわけですか?
人見:それは流派によって考え方が違いますね。
長州:流派!?それはどういう意味?
人見:いろんな治療法があるんです。例えば、人前に出ると緊張してしまう人がいたときに、そのドキドキするという症状を出なくすることに集中するアプローチと、「なぜドキドキするようになったのか一緒に考えていきましょう」というアプローチと、大雑把に言ったらそんなものがあるというイメージですね。
長州:大変だね。確かに答えのない世界だ。

人見:そうですね。専門家同士でも意見が違っていたりするので。あと、やっぱり世の中の人にわかってもらえないと、「心の専門家っていうけど何をやっているの?」とか言われちゃうわけです(苦笑)。
長州:昔からあるのかもしれないけど、「うつ」ってあるじゃない?うつには高いときと低いときがあって・・・・・・。
人見:はい、「躁うつ」と言ったりしますね。
長州:一人ね、親しい友人がいて、気分がいいときには朝から電話がかかってくるの。突然どこかへ行こうとか、もう聞いている相手を無視してどんどん話しかけてくるの。「おお、何だ、機嫌がいいな」と思ってたら実はそうではなくて、「その人は楽しいんじゃなくて、あなたに助けを求めているんだ」と説明されたことがあるの。本人は笑っていっぱい話すけれども、気分が高揚すればするほど、ものすごく苦しい状態にあるんだって。そう聞いたら、「じゃあ、もうちょっと接し方を考えたらよかった」と思ったよ。     人見:はい。今まさに長州さんがおっしゃったようなことを、本当は僕たちのような仕事をしている人間が積極的に伝えていかなければならないんですよ。「いや、そういうことではないんです。実はこういうことなんですよ」と知ってもらえたら、「ああ、そうなんだ」と長州さんのように関わり方を変えることができますから。

見えない世界へ向けて

人見:ところで長州さんは精力的にSNSに取り組まれていますが、やっぱり楽しいことという感覚ですか? もちろん仕事という面もあるでしょうけど。
長州:まずは見てくれる人を笑わせてやろうという気持ちがあるよ。その日に面白いことがあったら、それをちょっとオーバーにして書いてる。実際に起きたことにちょっと盛って(笑)。基本的には笑ってほしいの。
人見:おそらく昔の長州さんのプロレスを見ていた人たちからすると、ギャップがすごいと思いますよ。長州力という選手は笑いと無縁だったわけですから。
 それで今はツイッターのフォロワーが五三万人もいるんですね!
長州:人数が増えていくことについて、スタッフたちが驚いているのか喜んでいるのかはよくわかんないだけど、ツイッターはね、最初はLINEの延長みたいなものだと思ってて。まあ失敗が多かったんだけど、別に気にはしてないです。今は、あれはもうツイッターじゃないというか。俺のツイートに返信してくる人もツイッターの使い方をしてないしね。
人見:ああ、確かに長州さんに対する個人的なメッセージになってるかもしれませんね。
長州:何かお互いのやりとりをみんなに見せてるみたいになっちゃって。
人見:それで、長州さんはブログだと返信をするんですよね?
長州:ああ、あれはたまたま携帯を変えたら、その携帯がすごく返信しやすかったの(笑)。俺でも簡単にできる。前のやつはちょっとしんどかった。
人見:ブログはツイッターよりも気楽ですか?
長州:ああ、そうだね。ツイッターだとやっぱりちょっと硬い話になったときに、なかなか自分の気持ちを伝えられないというか。それを一四〇文字の中で伝えようと思ったら、言葉を難しく考えてしまって、そうすると今度はその文章が何か俺じゃあねえなというような感じになっちゃうの。ブログは短くても長くてもいいからね。
人見:ああ、なるほど。
長州:それで返信もするし。返信するのが楽しいというか。そうするとまた返ってくるし。やっぱり俺のファンだという人はプロレスのファンが多いから、俺から何か返ってきたら嬉しいと感じてくれるんじゃないかな。だから短くても、ちょっと「ありがとう」とか書くと、何か相手側に伝わったという感じがあるよね。
人見:SNSのことで言うと、今回、新型コロナの影響があってツイッターなんかがすごく荒れたりしたのは、外に出られなくなった人たちのストレスというのがやっぱりあったのかなと思います。

長州:みんな初めての体験だからね。でも、こんなふうになっちゃうんだなというのはあるよ。俺はツイッターを書いてて、もしかしたら何かストレスを溜め込んでいるようなことを書いているかもしれないけど。だから、気をつけているのは、相手を傷つけることは自分の文章からは発しないようにしていることだよね。
人見:長州さんは新型コロナのことでは、「皆さん、我慢しましょう」「頑張りましょう」と呼びかけられてますよね。
長州:それはやっぱり心配だし。「頑張ってください」と言われたら「ああ、お互いに頑張りましょう」と言うのと一緒ですよ。一人一人にそれをやっていたら大変なことになっちゃうけど。
 でも、少し注意しているのは、俺が書いたことに返信してくる人間は、もう大体こっち側寄りの意見を書いてくるの。「そうです。僕もそうです」と。みんなそう言う。だから、それは俺にとっては回答にはならないわけです。
人見:ああー。
長州:うん。みんなこっち寄りで、「私もそうなんですよ」と。そうやって書いてくる人間が多いから。あとね、こちらは実名でやっているけど、中には間違いなくすり替えているやつもいると思うんだよね。

人見:「すり替え」ですか?
長州:ツイッター上ではうまく対応はしているけれども、また違うところに出たら、ずっと何かを誹謗中傷したり揶揄したりしているとか。
人見:使い分けたり、なりすましたりという感じですか?
長州:ああ、そうそう。俺の前に出てくるときは、親しげに「私はいつもこういう感じです」と振る舞う。でも、ちょっと違うところに行った場合にどうなるのか。もうこっちが察しないとそれはわからないよね。
人見:なるほど。
長州:「何なんだこいつ、変わった野郎だな」と思うことはあるよ。そういうやつって、今まで書いていたことが急に変わって揶揄しだすの。「ああ、こいつはやっぱりどこか違うところに行けばすり替わっちゃうんだな」「それで、自分のそういう姿は見られていないと思っているんだろうな」と。そういう人間は何となくわかるよ。何となくわかる。それが当たっているか当たっていないかはわからないけれども。世の中そういうふうにやってる人は、たぶん多いんじゃないかな。ここではこうだけれども、向こうでは違うという。コロナと一緒でね、見えないんだから。でも、影響だけはあるんだ。とんでもない影響は。
人見:コロナと一緒でSNSの世界は見えないというのは、今のはすごく大事な言葉ですよね。

時代ではなく人間が変わった

長州:ツイッターをしているとね、世間を騒がせる事件があったときに「何なんだ、こいつは!」となっちゃう。
人見:はいはい、そう書いていたことがありましたね。
長州:ちょっと感情的になって書いちゃう。そうするとスタッフたちが「ちょっとこの投稿は削除したほうがいいです」と言ってくる。
 最近ちょっと驚いたのに、少年たちがホームレスに投石して殺した事件があったんだけど、それこそ「どういう心境でこういうことをやるのか」「一体何なんだ?」って思うよ。
なぜ大学まで行かせてもらった人間が、なぜ橋の下に住んでいる、誰が見たってそんなところに住みたくないけれども住まざるを得ない状態の人に対して石を投げるのか?誰か一人ぐらい止めようとするやつはいなかったのかって。

人見:もちろん自分がその場にいたわけではないから断言はできないんですけども、集団心理ということはあると思うんです。
長州:じゃあ、あそこにいた何人かの人間というのは、その場で同じ考えを持っていたっていうこと?
人見:例えばですが、いじめでも同じようなことが起きると思うんです。クラスの中で誰かがいじめられているのを、誰も止めないでエスカレートしていくという。
長州:ただね、そこまでやるかっていうのがあるよ。石を投げて人を殺めるっていうね。親をボウガンで撃ち殺す事件もあったでしょ。その考えがどうやったら湧いてくんだと。
人見:そうですね、スイッチが切り替わっちゃっているというか、普通の心理状態ではできないはずです。
長州:昨日まで愛想よく挨拶してた人が、次の日にボウガンで家族を殺すわけでしょ。じゃあ、前の日に何を考えていたのか。親はそれをわからなかったのかとは思うよ。
 子どもって生まれたらそのまま放っておいても勝手に育っていって、勝手に物事が考えられるようになって、その子の考えだけでああいう事件を起こしているのかな?じゃあ、親はそれに対して「ああ、こういう子に育ったんだな」と後から気づくの?
人見:そのあたりのことは報道されていませんし、親がどういう子育てをしていたのかというところまでわかってくると、私たちのような人間も発言しやすくなるんですが・・・・・・。
ただ、今、子育てをしている人たちだって、昔と変わらず一生懸命子育てをしている人はたくさんいると思います。
長州:子どもを育てるということについては、今の時代と俺の時代のズレはあるよね。ズレというか、まったく違うなという。俺がガキの頃は、月曜日の一時間目は絶対に「道徳」の授業だったんだよ。
人見:えっ、そうなんですか。
長州:月曜日の一時間目はそうなの。「道徳」の意味すらわからないで真面目に聞いていたけど。まあそこで聞かされることは、簡単に言えば、やっていいことと悪いことだよね。弱い者をいじめては駄目とか。それは今の時代でも変わらないと思うんだけど。
 だから、さっきの事件でも反対にホームレスの人の方が、「向こうへ行け」とか言って石を投げてきたわけでもないだろうし、その弱い人間、何もしてこない人間に対して、なぜあえてそういうことをするのかというのがあるよ。
 俺はやっぱり、もう古い考えと言われるだろうし、こういう言い方をするのも悪いですが、親も罪を負うべきで・・・・・・。
人見:うーん。

長州:そういう人物を育てたものとして、そこに「社会」という言葉に当てはめるんだったら、その前に「家族」だろうとは思う。「社会」を当てはめられたら、これはもう人間との付き合いなんか、誰ともできないんじゃないかな。
人見:今はよくも悪くも﹁個人の時代「みたいになってしまって、子ども部屋を親が見たら子どもが怒り出すという、そういうことも背景に影響しているのかなと伺っていて思いました。
長州:先生や教える人の側にも、「おまえ、本当に子どもに教えられるの?」という、世の中の不信感みたいなものもあるよね。
人見:はい。
長州:あまり先生の側を追い詰める言葉はよくないし、指導者の暴力は決していいことではないけれども、何なんだろうな、俺が子どもの頃は何かあったときには殴られた。それが当たり前。まあいいことではないよ。いいことではないんだけれども、「ああ、確かに俺がこういうことをしでかしているから殴られた。うん、だから、これはもうやらない方がいいな。でないとまた殴られるぞ」というようなことは感じた。今は、学校の先生が何か脅えながら子どもたちと接しているというか・・・・・・。

人見:それについては、僕もスクールカウンセラーという形で今の学校現場に行くわけです。そうすると、やっぱり自分が子どもだった頃に見ていた先生たちというのは、裏側を知らないだけかもわからないですが、上からガーンと怒ってたわけです。で、今の先生たちは、こういうことを言ったら子どもたちがどうなるかなということをずっと気にしていて。もう考え過ぎちゃって何も言えなくなっている先生もいるかもしれないです。全員ではないと思いますが。
長州:そういうのは、時代が違うって言うの?
人見:ああ、どうでしょう。
長州:時代が違うのではなくて、人間が変わってきたのではないの?

人見:確かにだいぶ変わってきているんでしょうね。例えば、コンピューターゲームなんかが出てくる。僕たちが子どもの頃なんてゲームがなかったから、当然外で遊んでました。でも、ゲームが出てきてだんだんそういうことが様変わりしていく。今の子どもたちは、もう生まれたときからすぐそばにゲームがあるわけですね。やっぱり似たようなところで、今ちょっと不安に思うのは、親が赤ちゃんを育てているときに、例えば、おっぱいをあげているときに何をしているのかといったら、赤ちゃんの目を見ないでスマホでLINEに返信しているんですね。そうやって目と目を見る機会がずいぶん減ってきたりしているとか、いろいろと指摘されているんです。
 その影響で、どういう子どもが育っていくのかというのは、なかなか一概に言えないんですけれども、でも、おっぱいを飲んでいるときにお母さんの目を見るのは、人間の赤ちゃんだけらしいです。
長州:じゃあ、その子どもの母親は、どうやって自分の母親を見ていたのだろうか。その母親の親も・・・・・・。
人見:それは、たぶんそういうことはなかったのでしょうね。だから、今、一生懸命子育てをしている人に誤解があってはいけないなと思っているんですけど、やっぱり「ママ友」の圧力というのもLINEなどでのやりとりが出てきたことですごく強くなってて。つまり、すぐに返事を書かないと仲間外れにされたりするわけです。

自分が守れるものを守る

長州:うん、俺はね、要するにいじめとか差別って、確かにいいことではないのはわかるけれども、俺はもうなくならないと思うんです。
人見:長州さんは、ずっとそうおっしゃっていますよね。
長州:うん、なくならないと思う。
人見:それは、やっぱり長州さんご自身の国籍のこともあるのですか?
長州:うん、ある。それにこだわって言っているわけではないけれども、差別やいじめというのは、時代が違うとかじゃなくて、どこからでも生まれてくるから。だから、そこから自分を守るためにはやっぱり強くなるしかない。強くなればいいんだ。自分で自分を守る。だから、俺の親も強かったよね。強かったということは、やっぱり親は子どもたちを守るために強くなったんだろうな。そうしたら、またその子どもたちも、いいのか悪いのかはわからないけれども、また自分たちが大きくなって子どもができたら、やっぱり同じ世界をつくっていくんだろうな。
人見:長州さんは親から殴られたりしたこともあったんですか?
長州:あったよ。
人見:でも、一方で、守ってもらっているという感覚もあったわけですよね?
長州:ああ、あるある。
人見:それで、どうなんでしょう。今の親の守り方というのは、もちろん長州さんの親のような守り方もあるかもしれないですが、今はいきなり学校にクレームを言うとかそういうことが多くなっていますよね。
長州:それはテレビのニュースを見ていればわかるし、何かつまらないことをみんなで話題にしているなというのはあるけど、もうそれが現実の今の世の中だし。反対に、今の世の中の方が、けっこう「どぎつい」というか、ヘイトでもどぎついし、そこまでやるかというのがあるよ。そして、言われている方も脅えてはいるけれども、何かをまた仕返ししてやろうというように見える。
 昔はね、やっぱり弱い人間はずっと最後まで弱かったんだよな。いじめられる方に最後まで強くなろうという気持ちがなかったというか、俺にはその考えはわからないけれども。俺はやっぱり何か体を動かして、力もつけて、言われないようにしようとしたよ。反対にそうしないと、差別もいじめもなくならない。相手はやめない。俺がそいつより力をつけたところを見せないと、絶対にやめない。
 だから、簡単に言えば、もう差別とかいじめはなくならないよ。今でもいろんな国で戦争をやっているわけだから。

人見:そうですね。だから、私たちが一生懸命やろうとしているのは、学校の中で、もちろんいじめとかそういうことはしないようにしましょうということで、先ほどの道徳の授業もその一つみたいなことなんですけど、それでも現に起きるわけですね。起きたときにどう発見して、どう対処していくかという・・・・・・。
長州:でもそれは、たぶん俺が生きている限りはなくならないと思う。だから、何ができるかといったら、俺の心の中には入ってくるなよということだよ。
人見:ああ、はい。

長州:俺のことをどう見ようが、どう考えようが、ここから先はもう俺の世界に入ってくるなというのは気持ちの中にはあるね。うん、あるよ。その代わりこっちも、その嫌なものは見たくないし、何かをしようとも思わないし。そうしながら、また次の時代を迎えていくしかないんじゃないの。わからないけど。ただ、なくならないだろうね。だから、なくならないものに対して、みんなが協力しあって少しでもどうにかしようとすることはわかるよ。でも自分にできるのは、自分だけのものを守るということしかないよね。
人見:そうか。長州さんは守るものをきちんとつくれたのかもわからないですね。でも、僕たちの前に登場するような人、かつていじめられたという人は、これがつくれないんですよ。「入ってくるな!」がつくれなくて、わーっといろんなものが入ってくるのではないかと思うんです。
長州:いや、それはつくれないのではなくて、自分でつくらないんじゃないの?違うんですか?やっぱりつくれないのか。
人見:ずっといじめられてきていた人たちはいろんな症状が出てきりするんです。「フラッシュバック」のように嫌な記憶が突然よみがえったり・・・・・・。
 長州さんはそこで、「 入いれないよ」「守るものは守るよ」ということができたわけですね。

長州:俺はね。で、守るといったらやっぱり家族でしかない。友人や仲間を守るというのは、今の時代にそれはないような気がするね。今はやっぱり家族だよ。孫もいるし、子どもたちもいるし。やっぱり一番大事なものだし。
 俺は俺なりの形で家族というものをつくり上げているけど、それがいいのか悪いのかは、俺にはわからない。世の中すべてがそうではないというのはわかっているし、俺のこういう考えもまた物議を醸すかもしれないけど、ただ、なるべく今の自分たちの家族に対して必要のないものは入ってこないようにしている。テリトリーの中に変なものは入れないというか。
 それは家族に対しても同じだよね。みんな苦しいこともあるし嫌なこともあるだろうけど、「今は俺がつくったものの中にみんな収まっていかなければ駄目だぞ」というのは、たぶん理解できていると思うよ。そこから外れることをしたら、どういうことになるかという怖さもわかっていると思う。年に一回ぐらいは落とすときがあるからね。

人見:それは「雷」をですか?
長州:うん、落とすときがある。それは、普段の怒り方ではないというのはわかると思う。声がめちゃめちゃ大きくなるし。
人見:最近そういう怖いお父さんというのはすごくいなくなっちゃった感じがしますね。
長州:別に怖がらそうとしているわけではないけどね。だから、娘たちもいつもバカなことを言って、まあ楽しくやっているけれども、あまりにもふざけ過ぎたら、落ちるっていうのがわかるようになってるよ。
人見:ここまでの話で「親とは何か」ということが語られているように思うのですが、長州さんは「俺はこうだぞ」ということを、責任を持って家族に示しているという感じがしますね。
長州:ああ、親はやっぱり「責任」じゃない?
 俺はもう親というのは、たとえどう言われようが、自分の子に対して責任をどう取るかだと思うので。だから、さっきの事件の話でも、お巡りさんが家に来て、「息子さんを逮捕します」と言われて「えっ」とまず驚くだろうけど、「まさかうちの息子が・・・・・・」とみんなそこで思うのかな?
人見:そういうことは長州さんの中ではあり得ないんですね。
長州:いや、本当によくそういうセリフを聞くけれども、そのときの親ってどういう反応を示すのかなと思って。親の顔はどういう具合になるのかなって。
 俺の親はね、怖いと感じることもあったんだけど、その反面それ以上の優しさというのがあったんだよ。殴られているのにやっぱり優しさも感じているんだよな。守ってくれるのは、うちの母親であり、父親であり、兄きょう姉だいでありというのは、今でも感じているよね。そういう育ち方をしてきているなという。
 やっぱり俺は、親の責任も問うべきだと思う。うん、問うべきだろうなあ。

人見:長州さんの「責任」の中には「覚悟」というものがありそうです。
長州:その責任はあくまで自分に対しての責任だから。周りにいるやつに「おまえたちも一緒だよ」というのは求めないよ。これは俺の責任でやるという。親として、そういう問題が起きたらね。まあ起きないことを願って毎日過ごしていますけど。常にちゃんとやっていても、やっぱり心配だよね。もうどんなに子どもたちが大きくなろうが。
 俺は、もう親も一緒だなと思うんだよ。だから、さっきのような事件を起こす子どもが育つ今の世の中はわからないし、許せないよ。どうしてそういうふうになるのか、俺は本当にわからないよね。
人見:長州さんの「俺はわからない」というその「わからない」に、きっと私たちは答えていかなければならないとは思うんですけれども。
長州:うん、でも、それはたぶん無理だよ。
人見:ああ、長州さん・・・・・・。

長州:無理だよ。もうそれはねえ、無理だろうと思う。よくテレビとかで、「あんたの気持ちはわかります」って言ってるでしょ。おまえに何がわかるんだって(笑)。
 俺の場合はね、もうガキの頃からかな、「おまえに俺の何がわかる」って口ぐせみたいなもんだからね。これを言うと、なぜみんなが笑うのかはわからないけれども。「俺の何がわかって言ってるの? おまえは身内か?」って。
 たぶん、俺がどういう人間になっていくかというのは、やっぱり母親、父親、あと少なからず兄きょう姉だいの影響があるはずで。今までずっと見られているし、家族が「こいつはこういうやつだ」って言うのは。当たっているよ。少なくとも違和感はないよ。
人見:はい。
長州:同じようなことを、全然知らない人間とか、友人からでもいいけど言われたりすると、「こいつ、俺の何がわかってるんだ」といつも思うよ。まあアドバイスとかそういうのは、区別しながら聞くことはできるけどね。

人生は平等で一瞬

人見:残念ながら時間がきてしまったんですけど、最後に、私たちがいるような業界を目指す若い方たちに何かメッセージはありますか?
長州:若い人たち・・・・・・。だったらあれだよ。人生、生きていくのにどんな人間でも時間は平等なんだよ。二四時間なんだ。それをどういう具合に自分で考えるか。もうちょっと責任を持って事を運んでいかないと、とんでもないことになっちゃうよ。
人見:長州さんがよく言われる、「瞬きしている間だぞ」ということですね。その自覚を持った方がいいと。
長州:そうそう。そうしないと、もう「浦島太郎」だ。ほんとあっという間だよ(笑)。



長州 力(ちょうしゅう・りき)
元プロレスラー。一九五一年一二月三日山口県生まれ。専修大学時代にレスリングで活躍し、一九七二年ミュンヘンオリンピックに出場。一九七四年八月八日、アントニオ猪木率いる新日本プロレスにてデビュー。デビュー当時は本名の「吉田光雄」であったがのちにファン公募で「長州力」に改名。一九八二年から始まった藤波辰巳(現・辰爾)との抗争は「名勝負数え歌」と称され史上空前のプロレスブームを巻き起こした。二〇一九年六月二六日、東京・後楽園ホールにて引退。

人見健太郎(ひとみ・けんたろう)
みとカウンセリングルームどんぐり所長。一九七三年茨城県水戸市生まれ。一九九七年、茨城大学大学院修士課程人文科学研究科修了。大野クリニック(現・医療法人南山会 栅町診療所)を経て、現職。二〇〇一年~二〇〇二年、英国タヴィストッククリニック思春期青年期部門留学。著書はいずれも共著で『学校臨床に役立つ精神分析』(誠信書房)、『力動的心理査定』(岩崎学術出版社)他。臨床心理士。

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