心理臨床の先達の卒業論文はどんなテーマで書かれたのか?そのテーマはその後の臨床にどうつながっているのか?
 今回は、日本の心理臨床の発展に長く貢献してこられた、滝口俊子先生にお話を伺いました。なおインタビューはCOVID-19の感染急拡大を受けて、オンラインで行われました。

学業不振児に寄せる思い

 私が滝口先生に最初にお会いしたのは、本学会シンポジウムの司会をしておられるときでした。鈴を転がすような美声と、笑顔を絶やさない優しい雰囲気と同時に、的確な司会進行と凛としたたたずまいから、芯に秘めた強さも伝わってきました。
 インタビューの冒頭で、その印象をお伝えすると、「あら、わたくしは自分の強さを悟られないように、ずっと気をつけていたのに」と笑っておられました。
 先生は、父親が洋画家、母親が教師という家庭に育ちました。母親の関係から学費免除だった立教女学院中学・高校の在学時に、アメリカで学んだ牧師の側垣正巳先生から「今後の日本も心理学が必要になる」と勧められて、立教大学文学部心理教育学科に進学します。
 卒業論文は、指導教授の佐々木剛先生から「立教小学校・立教女学院小学校の昭和三二年入学生を一六年間、追跡調査したデータを分析したら?」という勧めを受けて、小学校四年間の矢田部ギルフォード性格検査と国算理社四教科の成績との関係について考察したものでした。
 当初は児童全員のデータを検討していましたが、次第に学業不振児に着目するようになります。
 その経緯について、先生は成績優秀な兄姉と、母親に溺愛された弟との間で、幼少期に感じ続けた劣等感が影響していると自己分析されます。また父親が三七代目という家であったために、「跡取りの男の子が尊重されて、女の子は葛藤が多い子ども時代だったことも影響していと思う」と語られました。
 「統計処理をしていないことが引け目だった」にも関わらず、学科長の豊原先生が「良く書けている」とほめてくださったそうです。先生は「後で振り返れば、臨床心理的な感性が評価されたのかと思 う」とおっしゃいます。当時の心理学は実験心理学が主流で、「感性など、非科学的だ」とされていました。おそらくは、都会の私立校で、親の期待を背負いながら学業不振に苦しむ子どもたちに寄せる、 先生の温かさと考察の深さ、細やかさとが評価されたのだろうと思います。
 卒業後は、母親の教え子である佐藤紀子先生を通じて、たまたま慶應義塾大学医学部神経科で「クリニカル・サイコロジスト」を募集していることを知り、そこで同期の深津千賀子先生や精神科医らと訓練を受けるうちに、「知識不足」と思い至り、立教大学大学院に進学されました。
 修士論文は小此木啓吾先生の指導のもとに慶応病院で行った「学校恐怖症」(「不登校」という言葉はまだありませんでした)女児の遊戯療法の事例研究でした。事例研究という研究手法が世に認められる以前のことであり、「医療における症例研究に近いものだった」と先生は振り返られます。

二つの世界を結ぶ

 質問紙法である矢田部ギルフォード性格検査は結果の処理も定式化されており、より表層的な心理状況が測定されるものです。そこから深い心理状態を読み取るには、優れた臨床心理学的感性が求められます。表層と深層、性格類型と学業成績の二つの世界を結び付け、俯瞰し、考察する卒論からスタートした先生のあり方は、その後の臨床家人生においても如何なく発揮されています。
 小此木啓吾先生のもとでフロイト派の修練からスタートし、その後、ユング派の河合隼雄先生のもとで夢分析と箱庭を中心に二一年間、七五四回の教育分析を受けられました。河合先生は東洋と西洋を結ぶ論考に幾多の業績を残しておられます。小此木先生は「本来ならば破門もの」とおっしゃったそうですが、「本来」をも覆してしまう、しなやかさと芯の強さが滝口先生の臨床の真骨頂であり、その萌芽を卒論に見る思いがします。

滝口俊子(たきぐち・としこ) 

立教大学文学部心理教育学科卒業。立教大学大学院修了。立教女学院短期大学、京都文教大学、放送大学大学院で教鞭をとる。放送大学名誉教授。心理臨床場面は医療・教育・私設心理相談など。二〇一一年度日本心理臨床学会学会賞受賞。

広報誌アーカイブ