特集02: 書くこと— 臨床しながら書くこと・発信すること 余はいかにしてTwitter の実名アカウントとなりしか
著者 十文字学園女子大学 東畑開人
「書く」特集なので、普通だったら本や論文について書くべきなのだろうが、Twitter の話をする。
今調べてみたら、私の場合、時期によって変動はあるのだが、大体月に四〇ツイートくらいしているみたいだ。字数にするとおおよそ六〇〇〇字だから、ちょっとした月刊連載ができるくらいの執筆量だ。我ながらあきれてしまう。ただ、負担はほぼない。呼吸するようにツイートしている、と言うと言いすぎかもしれないが、電車に乗っている手持無沙汰な時間、つぶやきたいときにだけつぶやいていると、結果として六〇〇〇字書いていた感じになる。
書いている内容はたわいもないことだ。ときどき出版や講演の告知もしているが、ほとんどのツイートが本の感想文。本を読んでいて、面白かったこととか、そこから考えたこととかをツイートしている。本を読むこと、それについて考えることは仕事の一部で、Twitter もそのサイクルに組み込まれている。
そうだとして、そもそもなんのためにTwitter をしているのか?
答えは明確だ。
本を売るために。何の本を? もちろん、自分の本を。
『野の医者は笑う』を売る
実名でTwitter を始めたのは、忘れもしない二〇一五年の夏だ。
その夏、私は『野の医者は笑う』という本を出版した。本を書き上げたとき、著者は不安定になる宿命にある(私だけではないはずだ)。自分の書いたものが世紀の傑作だと絶賛されるのではないかと思ったり、ひどい駄作だと批判にさらされるのではないか不安になったり、頭が忙しくなる(現実はそのどちらでもないものだ)。
ドン・キホーテみたいだ。本を書くというのは、孤独な営みなのだと思う。人は孤独なときに、野心的になり、迫害的になる。そして、だからこそ、なんとしてでも多くの人に自分の本を読んでほしいと願う。そのために、自分の本をなんとしてでも宣伝したいと思う。そういう二〇一五年の夏、私の手元にあったのはTwitter だけだった。
かくして私はTwitter を始めた。実名アカウントを始めた。目的は『野の医者は笑う』を売ること。それだけだった。
クライエントが読む言葉
もちろん、葛藤はあった。心理士が実名でSNSの情報発信をする。抵抗のある人も多いと思う。そして、実際のところ、それは一理も二理もある。
SNSでケースのことを書くのは論外なのだが、それだけではなく治療者の声は面接室の中に閉じ込めておいた方が安全だ。私たちはフラジャイルな(壊れやすい)ものを扱っている職業なのだから、慎重で注意深くなくてはならない。クライエントが私のツイートを見たとき、どう思うか。そういう声は私の中にも響いていた。
だけど、本を出す以上、面接室の外で声を響かせる覚悟をしなくてはいけない、そう思っている私もいた。クライエントの中には私の本を読む人もいるだろう。あるいは本を読んで、カウンセリングルームを訪れるクライエントもいるだろう。書店で売られる本とはそういうものなのだ。思ってもいないところに声が届く。それは祝福すべきことだ。そうじゃなきゃ、本を書く意味はない。だとすると、SNSで言葉を発信すること自体が問題ではない。面接室の外に声が届くとして、その中身こそが問題だ。
だから、ルールを決めた。クライエントが見ても、責任を取れる言葉のみをツイートする。できる限り人を傷つけないこと。たとえ意図せず傷つけてしまうことがあったとしても、面接室の中できちんと説明でき、自分の言葉だと引き受けられるツイートだけをする。そう決めた。必要なのは、精査され、鍛えられ、間違いなく自分のものだと言える言葉だった。
目から下は書かない
実際のところ、いかなる言葉に責任をとれるかは、人によって差があると思う。当然だ。どういうツイートならできて、どういうツイートはできないのか、それは各人がどういう臨床現場で、どういう治療者であろうとしているのかによって変わってくる。一律の基準はない。だから、以下はあくまで私の場合である。力動的心理療法と医療人類学を専門として、開業臨床を営む心理士の場合である。
気づけば、私は目から下のことは書かないようになっていた。たとえば、いい匂いを嗅いだとか、美味しいものを食べたとか、肩が凝ったとか。そういう身体的な満足や不満足については書かない。あるいは胸のつかえがとれたとか、はらわたが煮えくり返っているとか、情緒的なことも書かない。何かを愛していること、憎んでいること、傷ついたり、癒されたりしていることについては書かない。それは面接室の中で、クライエントが自由に想像できるようにしておくべきことなのだ。
とはいえ、ツイートの行間から、目から下がにじみ出ることはあるかもしれない。文章とはそういうものだ。文章は書かれていないことまで運んでしまう混乱した乗り物だ。それでも極力、にじませないように努力することはできる。ツイートする前に読み返し、問題があれば削除する。当たり前のことだが、飲み会の後とか、深夜とか、気が緩みがちなときにはツイートしない。
すると結局、書いていいのは目から上のことだけになる。目で見たこと、頭で考えたこと。つまり、知的に処理されて、距離をとって語れること。そういうことは本や論文にも書いていることなのだ。私がどういう生活をしている人なのかはクライエントの想像に委ねるべきだが、私がどういう治療者であろうとしているのかは開示された方がいい。特に開業心理士にとっては、それは社会的責務でもあると思う。
書くことのサイクル
言葉は目の下からやってきて、目の上にまで達したときに、ようやく書き言葉になる。そのためには時間がかかる。特に、複雑なこと、賛否両論あること、そういうことについての言葉は形になるのに時間がかかる。だから、Twitter という断片しか運べないメディアでそういうことを発信するのは難しい。少なくとも、私の場合はそうだ。
そういう言葉たちは本や論文になるまで、自分の中に置いておく。Word に保存して、何度も何度も書き直す。言葉を鍛え、育てる。ようやく本になったら、その断片をツイートする。そうやって読者たちに手に取ってもらい、時間をかけて読んでもらう。そうして初めて、それらは生きた言葉になる。これが私の書くことのサイクルだ。
余はいかにしてTwitterの実名アカウントになりしか。
本を売るためにTwitter をはじめた。そして、心の治療者として考えていることを、社会に受け取ってもらうために、Twitter をしている。
そういうことの積み重ねによって、私たちの仕事はかろうじて社会の中で場所を得る。先人たちが、私たちの組織が、そしてきっとこれを読んでいるあなたが取り組んできたことを、私も私で細々とやっている。一四〇字でやっている。