野に出てフロイトと出会う

 「実践を行いながら研究をするのが専門家のあるべき姿」。大学院教育課程で叩きこまれた専門家の姿が、今となっては遠くに霞んで見える。
 大学院を卒業し社会という野に出て二年目、自分が大学院で描いていた専門家とは違う姿になっていることに気づく。とにかく忙しい。一日八時間仕事に拘束され、帰れば夕飯を作りお風呂に入り明日の弁当を作る。週末は一週間分の洗濯、掃除、スーパーの買い出し、時には持ち帰りの仕事や研修、プライベートなイベントに一日拘束されたりもする。生活を営むのはとにかく忙しい。そもそもアカデミシャンでもないので、研究実績が自分のキャリアや収入に直結することもない。就活に求められるのは資格の有無、臨床経験、そして人柄である。知識は仕事に必要な知識だけアップデートしていけばいい。なんだか後ろめたい気もするが、野では研究論文を書く暇なんてないし、書かなくても充分生きていける。アカデミアと野では生存の法則が違う。
 そんな惰性とちょっとした危機感を抱き生活するようになった頃、僕は古本屋で手にした『フロイトの生涯』の中で在野研究者フロイトと出会う。フロイトは知的エリート家系でも裕福な家系の出でもない。人種的、経済的理由により希望するアカデミックポストにはつけず、最終的にアカデミシャンの夢を諦め、町医者になる。こうして、フロイトはアカデミアから野に出て、アカデミアの外部で生活の糧を得ながら学問的研究を行う在野研究者となる。野に出て研究から遠ざかり燻くぶっていた僕に、大先輩フロイトが何か知恵を与えてくれるかもしれない。そう思いながら僕は『フロイトの生涯』の頁を進めた。

フロイト流在野研究の知恵

 在野で研究をしようと思った時、まず障壁として立ちはだかるのは「時間」と「お金」の問題である。フロイトもその点には苦労したようだ。当たり前だが、研究には何かと「お金」がかかる。本や論文などの資料を集め、取材や調査に出かけ、統計や執筆のためのソフトやPCを準備する必要がある。さらには思考し、分析し、書く「時間」も必要である。しかし、大学のような贅沢な研究環境はない。「時間」と「お金」は日々の生活と労働に容赦なく奪われていく。では、フロイトはこれらの課題を如何に乗り越えていたのだろうか。
 フロイトの研究活動を見ていると、フロイトの重要な仕事は「友人」の存在に支えられている。神経学者時代、密かに成功を収めた小児麻痺領域では友人のオスカー・リーが共同研究者に、精神分析誕生のきっかけとなった『ヒステリー研究』はブロイエル、夢判断』はフリースとの共同研究によって書かれている。その後も、ユング、フェレンツィ、さまざまな仲間の協力でフロイトの精神分析理論は築かれていく。さらにフロイトの在野研究に役立ったのは手紙だろう。手紙が好きであったフロイトは数万通という手紙のやり取りの中で、他者の知恵を借りながら理論を練っていった。
 なるほど。在野研究をするには友人が、仲間が必要なのか。一人より二人いれば、時間的、経済的負担を分担でき、一人で考えるより何倍も思考することができる。共同研究はコスパがいいのだ。さらに、一人だといくらでも研究を投げ出せるが、誰かが関わるとそう簡単には投げ出せない。(ただ、フロイトは友人と喧嘩別れをするのがお決まりである。その点だけ気をつけよう。研究のために友人を失うのはごめんだ。)
 書き方については、フロイトの場合、一日一〇時間以上仕事をし、その後に論文を執筆したらしいが、スマホやタブレットなど現代のテクノロジーを活用すればフロイトのような過酷な書き方をする必要はない。職場の休憩室、ATMの行列の中、通勤電車の中、どこでも文章は書ける。フロイトの思考に役立った手紙に代わるものは、LINE やTwitterなど今の世の中、方法はいくらでもある。
 また、フロイトはヒステリーというテーマに着手する前に、薬理学、生理学、胎生学、神経解剖学、小児医学、様々な領域をさまよっている。そして、大学にポストを得られず、結果的にアカデミアが避けたヒステリー治療を町医者として引き受けた。それらの経験が、精神分析という理論体系へと結晶化していった。もしフロイトの実家が太くて、神経医学者として大学にポストを得ていたら、精神分析は生まれなかったわけだ。在野研究者も研究者としての居場所はない。アカデミシャンのように専門が固定されているわけでもなければ、研究が職務でもない。しかし、だからこそ自由に動き回れる。気になった領域にふらっと訪れ、ノーリスクで未開の地へ挑戦できる。就職先が関心領域と近い職種であれば、ラッキーなことにお金を稼ぎながらフィールドワークができる。自由に動き回る中で、メインストリームからこぼれ落ちた知を発見するかもしれない。
 フロイトの生涯を読み終えると、なんだか在野でも研究ができそうな気がしてきた。僕はフロイト先輩をお手本に在野研究を始めることにした。

在野研究のすすめ

 フロイトの知恵を借りながら、野に出て四年目、僕は三本の論文を学会誌に投稿した。その多くは友人たちとの共同研究である。恥ずかしながら、修正再投稿を繰り返しまだ掲載には至っていないが、焦る必要はない。書いたところで現実の生活は変わらない。少し賢くなり関心を共有する友人が増えはするが、これは研究論文を書かなくても実現可能だ。こうしてみると、やはり野で生活するのであれば研究論文は書かなくてもいいのかもしれない。専門家として意識が低すぎると怒られるかもしれないが、実践をしながら研究を行うのはとにかく大変なので、できなくても仕方ないよねと言いたくなる。
 それでも、研究から離れて野をさまよっているあなたに在野研究を勧めたい。
 やってみると、やはり研究は楽しい。子どもの頃、探検で裏山に踏み込んだあの時、絵本のページをめくる瞬間、車の窓から眺める知らない土地の風景、あの時のような楽しさが味わえる。大人になると、そのような楽しさを味わえる機会は少ない。それに、大学院を卒業し大人になった今だからこそ、単位や指導教官の顔色を心配せずに知的好奇心の赴くままに研究活動ができる。そもそも、僕ら在野研究者は誰に期待されているわけでもない。失敗したって誰も気にしないので怖がる必要はない。……これは言いすぎかもしれないが、それぐらいのメンタリティでいいかもしれない。騙されたと思ってぜひ、一度やってみてほしい。急がなくていい。誰にも気づかれないニッチで小さな研究でもいい。そうした広大な野でゆっくりと生まれた小さな研究もまた、結果的に学問にオルタナティブな価値や多様性をもたらし、学問全体を豊かにするはずだ。

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