これまで多くの本を書き、出版してきました。意外と思われるでしょうが、私が初めての著作(『「アダルトチルドレン」完全理解ー一人ひとり楽にいこう』三五館、一九九六)を出版したのは満五〇歳になってからでした。多くの著者が早ければ二〇代で著作を出版するのに比べると、「遅咲き」だったと思います。
 なぜそんなに本を書くのか、と問われれば、答えは簡単です。多くの困っているひとたちにクライエントとして来談してほしいからです。隠れたクライエント、未来のクライエントに宛てて(獲得するために)多くの本を書いてきました。お読みになった皆さんは、「ええっ、まるで集客のために書いてきたみたいじゃないですか?」と思われるでしょう。別に誤解ではありません、そのとおりです。

開業心理相談のサバイバル

 ここで、もう少し説明しましょう。一九九五年の秋に急遽開業心理相談機関を開設することになったことが本を出すきっかけになりました。詳細は避けますが、わずか三か月間ですべての準備を整えて一二月には原宿カウンセリングセンター(以下センターと略す)を設立しました。女性だけの一二人のスタッフとともにスタートしたのですが、すぐに私が直面したのは経営基盤の確立と維持の問題でした。医者でもない私たち心理士が開業した場合、お店を開いて待っているだけでは経営を維持できません。看板を掲げれば患者さんが受診してくれる医療機関とはわけが違います。当時から今に至るまで、カウンセリングに訪れた場合、保険診療の一〇倍程度の料金がかかります。一九九五年はスクールカウンセラー制度も発足したばかりでしたが、カウンセリングという言葉は今よりはるかに知られておらず、私たちの仕事もメディアからは「クリニック」「精神科と同じ」という扱いばかりでしたので、説明するのにどれほど苦労したかは言うまでもありません。同業者や学会のバックアップなど期待できず、先の見えない大海原の航海に乗り出したという感覚をずっと抱いていました。

理論的根拠を示す

 長々と書いたのは、航海を始めた以上、沈没するわけにはいかず、まして後戻りなどできないという切迫感を説明するためです。同業者と書きましたが、当時私の念頭にあったのは精神科医療との差異化だけでした。受診と来談のどこが違うのか、私たちは「病気」の「治療」ではなく、困っている「問題」を解決する援助をするのだということを、わかりやすく、なおかつ理論的根拠にもとづき多くのひとに知ってもらう必要がありました。
 その後『アディクションアプローチーもうひとつの家族援助論』(医学書院、一九九九)『依存症』(文春新書、二〇〇〇)と立て続けに出版したのも、依存症(アディクション)という問題は、精神科医療ではなく医療の外側での援助こそ有効であることを必死で証明するためでした。
 このように、私が本を書いてきた理由は、すべて私が運営する開業心理相談機関が経営的に存続し、専門家(精神科医)から認められ、多くの読者が「私の苦しんでいる問題はカウンセリングで解決できるのかもしれない」と思ってくれることへの願いからでした。
 幸いにも、アダルトチルドレンという言葉は一九九六年から多くのひとに受け入れられて広がり、私の本も売れてビギナーズラックと言える状況でした。当時の書店にはACコーナーまでできて、虐待に関する本もたくさん平積みにされていました。インターネットも発展途上だったので、いまとは比較にならないほど本を読むひとが多かった時代でした。

新たなニーズの掘り起こし

 二一世紀になってからも、私の問題意識は絶えず「ニーズの掘り起こし」にありました。それは同時に精神科医療が扱えない問題を積極的に対象とすることを意味しました。そうすることで、なんとか開業心理相談機関は生き残っていける、そう直観したからです。
 二〇〇二年には『DVと虐待ー家族の暴力に援助者ができること』(医学書院)を出版し、家族における暴力の問題を正面から扱うことを試みました。心理士の世界ではいまだに暴力の問題に対して及び腰の感が強いですが、DVと虐待を同じ家族の暴力としてとらえるという私の姿勢は、当時はもちろん今でも少数であり続けています。
 その後、暴力の被害者と並んで、加害者へのアプローチを積極的に行うようになりました。これもすでに述べたように、医療内部では解決できない問題だからです。DV加害者プログラムに加えて、DV被害者グループを実施することで、家族の暴力が立体的にとらえられるようになりました。
 二〇〇八年には『母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き』(春秋社)を出版しました。多くの人に読まれ、その後母娘問題というジャンルを形成するきっかけとなりました。これはまさに「母との関係に苦しむ娘たち」という一群のひとたちを掘り起こすことになりました。同じ年に『加害者は変われるか?ーDVと虐待をみつめながら』(筑摩書房、二〇〇八)を出版しています。思い返せば、すでに還暦を過ぎていたのに、二〇〇五年から二つの連載を並行していたことになります。

海図のない航海

 一九九六年から始まった私の執筆活動は、海図のない航海に乗り出すようなものでしたが、その後徐々に変化していきます。むしろ誰の足跡もない新雪の上を歩くような楽しみを覚えるようになりました。誰も書いていないテーマは、ある意味で自由でもあります。今から思えば、初期はセンターのサバイバルのため必死でしたが、その後の私の執筆をサポートしてくれたのはクライエントの皆さんでした。もともとアディクションという領域は、自助グループとの連携が欠かせないものでした。それを当事者と呼ぶならば、依存症、AC、DV被害の当事者の皆さんとのつながりが私の執筆を根底から支えています。彼ら・彼女たちは援助の対象と言うよりも、ともに言葉を紡ぎ、私の新しい視点と定義を与えてくれる、支えてくれる(と私は思っています)存在です。
 航海そのものは不安と孤独でいっぱいでしたが、いつもセンターのスタッフと、何より当事者の皆さんとのつながりに支えられて、臨床活動はもとより多くの本を書いてくることができました。
 残念ながらそこに欠落していたのは同業者です。専門誌の論文はもちろん専門家・同業者に読まれることを意識していますが、それ以外の一般書は、他の領域(社会学・哲学・精神病理学など)のひとたちや、何より当事者であるひとびとを念頭に書いてきたからです。しかし近年、私の子どもより若い同業者の中に、これまでの私の航海の軌跡に関心を持ってくれるひとたちが登場したことは喜びでもあります。

忘れられないひとこと

 九〇年代末、尊敬するひとにこう言われたことがあります。文章は「誰に宛てて書くのか」が何より大切であると。宛て先=address こそが重要という言葉は、今でも文章を書く際に、必ず意識しています。言い換えれば、宛て先が見えれば(未だ見ぬ人も含めて)、なんとかこれからも文章を書くことができるのかもしれません。
 この文章も、心理臨床に関心を持つひとたち、そして同業者の皆さんの顔を思い浮かべ、宛て先にすることで書くことができました。私のつたない経験が皆さまのお役に立てればさいわいです。

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