異質な存在としてのスクールカウンセラー

 いまでこそ「チーム学校」の一員として位置づけられたスクールカウンセラーですが、それでもやはり、その存在はある種の「異質さ」を帯びていると私は思います。その異質さは、教師とは異なる養成課程を経て、異なる専門性、異なる事象の見方、感じ方、考え方、介入法を携えていることに由来します。無論、病院においても私たちが異質な存在であることに変わりはないのですが、病院には他にも多数の専門職が集まっているゆえに、その異質さは学校よりは際立ちにくいように思います。学校側からすれば、スクールカウンセラーの導入は、こうした異質な存在を自分たちの文化や組織にどのように受け入れていくかというストーリーを意味しており、必然的にそこには異文化コミュニケーションのテーマが浮上します。
 ところで、学校にはスクールカウンセラーとは別に(学校という体制側から見ると)「異質さ」を帯びた(ように見える)人たちがいます。一律のカリキュラムをこなし、ある規律に沿いながら集団適応を目指していくことに人間の生産性の一端を見いだそうとする場においては、不登校生や発達障害の特性をもつ児童生徒、あるいは種々の行動問題を起こす児童生徒は、大なり小なり「異質な存在」として見なされがちです。スクールカウンセラーと彼らとのつながりを考えるうえで、この「異質さ」という要素は大きな意味をもつように感じられます。双方が異邦人であるがゆえの共鳴の感覚です。
 そして、学校がこうした異邦人を受け入れていくことには重要な意義があります。
 このことを説明するうえで、次のような図を思い浮かべてほしいのですが、いま何の問題もなく調和している(あるいは、そのように見せかけている)学校を真円で表すとしましょう。すると、この異質さをもつ児童生徒やスクールカウンセラーの存在は、その円からはみ出た凸部分として表すことができそうです。このとき、学校全体がこの凸部分をそのままに包むことができたならば、そこには元の円よりもさらに大きな円が描かれることになります。学校全体の器の拡張です。ここに挙げた児童生徒やスクールカウンセラーが生き生きと機能しうるならば、そのことは母体となる学校それ自体の成長に寄与するのです。

スクールカウンセラー便りの効用

 スクールカウンセラーが学校で機能していくうえで活用されるのが「カウンセラー便り」です。その内容は心理学的・臨床心理学的な知見にもとづく助言や提言、カウンセラーの自己紹介や雑感の提示、アクセス方法や相談方法の紹介など多岐にわたりますが(個人的にはその知見を集めて一冊の本にしたいぐらいです)、共通するのはコマーシャルとしての役割です。そのカウンセラーがどのような人物で、何を考え、何をしようとしているのかを明示することで、ユーザーのアクセシビリティを向上させることが狙いのひとつです。
 と同時に、カウンセラー便りには児童生徒や保護者のセルフヘルプ機能の賦活といった機能もあります。心理教育的な知見を紹介することで、ユーザーの生活上でのメンタルヘルスに貢献しようとする役割です。
 私自身も基本的にはカウンセラー便りをこれらの目的に則して作成していますが、さらなる意図として「私自身がなるべくカウンセリングを進めやすいように便りを作る」ということがあります。
 スクールカウンセラーという仕事は原理的な困難をはらんでいます。その困難のひとつとして、多くの人が週一日以下の勤務形態であることが挙げられます。スクールカウンセラーの職域は拡大していながら、依然として勤務条件は変わりません。そのため、限られた時間内で問題状況をアセスメントし、支援方針を策定し、実際に支援を供給していかねばなりません。相談件数が増えれば「時間をかけて事に取り組む」こともままならなくなります。どうしても支援のスリム化が求められます。
 また、相談形態が多様になりがちなことも難しさのひとつです。学校を忌避する不登校生の場合、私たちのもとに本人が姿を現さないことは稀ではありません。その際には保護者を通じて間接的に本人にはたらきかけるか、アウトリーチを駆使することになるわけですが、いずれにせよ、個人心理療法モデルとは異なる手続きを要します。他にも支援状況を複雑にする要素が多々あります。
 その対策として、私自身は便りのなかにさまざまな相談事に対する私自身の考え方、捉え方、アセスメントの観点、支援の具体的な進行方法について記すことで、ユーザーにあらかじめ相談スタイルのイメージを準備してもらえるようにしています。生徒や保護者が完全に未知の場に赴くのではない状態をつくりだすことで、支援の導入をなるべくスムーズにするためです。たとえば(特に不登校事例で顕著ですが)学校臨床ではひとつの問題に対して複数の主訴とニーズがもちこまれることが多いわけですが、私が関係者各人(子ども、保護者、教師など)の主訴とニーズを明確にするところから支援をスタートさせるのを大切にしていることを記したりします。あるいは、私自身のアセスメントの観点(私が知りたいこと)を記しておくと、ユーザーの方があらかじめその観点をふまえた情報を準備していてくれることもあります。
 ここで「カウンセラーが知りたいことや相談の進め方をあらかじめ規定してしまうと、ユーザーは自分なりのペースで自由に面談を展開できなくなるのではないか」という批判が投げかけられるかもしれません。
 この批判は一理あります。ただ、経験的には、むしろユーザーは私が知りたいこと以上の情報を最初から提供してくれたり、私が想定している面接の手続きに対して意見をくれたり、それを超えた展開を形作ったりすることの方が多いと感じます。もしかすると、私の便りの記載が事態を考えるうえでの「基準線」のようなものになることで、逆に彼らのパーソナルな理解や動きが展開しやすくなるのかもしれません。

おわりに

 以上のように、私自身はカウンセラー便りを介入法のひとつとして使用しています。ただ、このような使用法にはあまりにも「遊び」の余地がないような気もしています。やはり、カウンセラー便りはそのカウンセラーが思うように自由に作成した方が良いのかもしれません。昨今の学校事情をふまえると、その「遊び」の感覚こそがもっとも大切なメッセージとなるように思えるからです。

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