先生とはじめて出会ったのは、昭和29年に東京教育大学の研究室に表敬訪問したときである。そのころ九大精神科で、蔵内宏和さんと二人で催眠の研究に凝っていたので、催眠学の先輩へのご挨拶ということにかこつけて、われわれの催眠の成果を、先生に誇示したくて行ったものである。
先生は私よりも3つか4つ年上で、「助手」だった。しかし何だか教授みたいな貫禄を感じた。にこやかに迎えられて、数名の大学院生との催眠研究会に参加させてもらったり、自宅にまで招いて歓待を受けたりした。
そののち昭和31年に、成瀬先生と、慈恵医大の竹山恒寿先生と組んで、「日本催眠学会」を設立した。そのときに開催した催眠講習会から、その後のわが国の催眠研究者の多くが育ってゆくことになった。
成瀬先生が、『催眠面接法』(誠信書房、1968年)というテキストを書かれているという話を聞いて、ライバル意識を燃やしながら、蔵内さんと二人で『現代催眠学』(慶應義塾大学出版会、1960年)を書き上げたが、出版にひまどって、一年後れたのは残念だった。
その後、私は精神科から心療内科に移って催眠などやっていたが、そのころ先生は九大の教育学部に赴任されてきた。医局の研究会などにも顔を出されるようになって、福岡での奇遇を喜んだ。そしていつか先生と飲んでいたとき、私が「心療内科は忙しすぎて、ゆっくり精神分析がやれない」などとぼやいた。すると、「今ちょうど、池田数好教授のカウンセリング講座の席が空いているから、移ってきたら」と勧められた。それで私は昭和41年に、教育学部に移ることにした。36歳だった。
なにしろ催眠の大御所が、隣の研究室で催眠を用いて動作法の研究を進められていたので、私はきっぱりと催眠は止めることにした。もともと物好きではじめたものだったので、精神分析に専念することにした。今にして思えば、このように成瀬先生は私の運命に大きく関わられてきたものである。
その後、先生とともに、京大、広島大と組んだ「三大学院合宿研修会」をつづけたり、「日本心理臨床学会」の設立に関与したり、「九州臨床心理学会」を立ち上げたりしてきたが、先生はいつもリーダーシップを発揮され、そのエネルギーにこちらも乗せられたものである。先生と親しくしていたので、初期の学会とか研修会などでの合宿があると、同じ部屋に寝泊まりすることも多かった。話の好きな先生だったので、床の中でいろいろな話を聞いて啓発されることも多かった。
そもそも私とは性格がまったく違っていて、若い頃には猟銃をかついで山野を駆け巡るのが好きだったそうだし、人ざわりのいい柔らかな口調で社交性に富んでおられて、誰とでもすぐに親しくなられていたし、人を集めてそのリーダーになるのもお好きなようだった。事によらず、頼りになる存在だった。本質的に、典型的な男性的性格だったと思う。
こうして先生の定年まで25年近くも身近にいて、ときには先生に異論をさしはさむこともあったが、ケンカしたことは一度もなかった。先生は、外向きの行動主義であったし、こちらは内向きの深層心理というわけで、まったく次元は違っていたが、ときには「イメージ」の研究などを、一緒にやってきたこともある。
ここに久しぶりに、ありし日の先生のお姿を思い出して懐かしんでいる。