「リアコ」と「追っかけ」や「推し」との違い
「リアコ」とは、「リアルに恋している」の略で、実際に会うことが極めて難しいアイドルや俳優といった有名人や、アニメやゲームなどの二次元キャラクターなどに本気で惚れ込み、実際に交際することや結婚することを強く望むことを意味するネット・スラング(電子掲示板やSNS上で使われる俗語)です。
「リアコ」に落ちると、対象となる有名人や二次元キャラクターと人目を忍んでカフェ・デートすることを空想してトキメキを感じたり、夕日が沈む海岸でのプロポーズのシチュエーションやせりふを空想して感動のあまり涙したり、結婚後の住まいとなるタワーマンションで朝日を浴びながら何気ない会話をする二人を思い描いて一人照れたりと、どこまでも果てしなく広がるロマンティックな空想に酔いしれることができます。
「リアコ」と一般的な「追っかけ」 や「推し」との違いは、恋の本気度 と対象に対する独占欲や他のファン への嫉妬心の強さで区別されます。一般的な「追っかけ」や「推し」の場合は、対象となる有名人や二次元キャラクターへの憧れが基本で、実際に交際することや結婚することを求めておらず、他のファンへの嫉妬心や対象に対する独占欲はさほど強くありません。一方、「リアコ」の場合は、対象となる有名人や二次元キャラクターに本気で惚れ込んでおり、他のファンへの嫉妬心や対象に対する独占欲が強くなる傾向にあります。
そこまで惚れ込めるのは なぜか?
「リアコ」の対象となる有名人や二次元キャラクター、ここでは「リアコ」対象と呼びますが、この「リアコ」対象には直接会うことや交流することが基本的にできないため、「リアコ」に落ちた人は、メディアやSNSで発信される情報などの公表されている情報からしか、その人となりを知ることができません。直接のやりとりによってなら実現可能である、実際の「リアコ」対象の人となりを立体的に捉えるということが不可能です。従って、「リアコ」対象に関して得られる情報はかなり限られていて断片的です。「リアコ」に落ちると、そんなほんの一部のことしかわからない「リアコ」対象に恋焦がれ、交際や結婚を本気で望めるのですが、それはどうしてでしょうか。そのなぞを解くカギが、精神分析理論の一つである「自己心理学」にあります。
自己心理学とは、アメリカの精神分析家ハインツ・コフートが確立した理論です。この自己心理学においてコフートは、自分自身を愛し、大切に思う気持ちである「自己愛」は生涯にわたって発達すると主張しています。コフートによれば、自己愛は、全知全能の自己像に基づいて自分自身を誇らしく思う状態から、欠点や弱点を含めたありのままの自分を大切に思う状態へと発達するとしています。ただし、自己愛がどれだけ発達しても、自分自身が全知全能であるという空想や願望が完全に消えることはなく、理想という形の陰に残り続けるとコフートは考えています。目覚ましく活躍するスポーツ選手や芸能人などが多くの人からあがめられるのは、こうした全知全能の自己像が他者に映し出された状態であると考えます。
この自己心理学における自己愛の観点から考えると、「リアコ」は、全知全能の自己像に基づき自分自身を大切に思う気持ちが、「リアコ」対象に映し出されている状態と言えます。断片的にしか知り得ない「リアコ」対象に、「リアコ」対象に求める志向や考え方や性格などを想像して「リアコ」対象の像を完成させ、その像のとりこになるのです。そして、「リアコ」に落ちた人は、自分自身が作りあげた完璧な「リアコ」対象の像との結合、つまり、「リアコ」対象との交際や結婚によって、自分自身の自己愛を満たそうとしていると説明できるでしょう。
私たちは、約三年間の間、コロナ感染予防のためにマスク着用を新しい生活様式として取り入れています。顔の半分がマスクで隠されたことにより、マスクを着けている人の、マスクの下に隠れている部分を見たことがない人は、その部分を自分なりに想像するしかありません。マスクの着用が義務づけられ始めた頃、「マスク美人」なる言葉が広がりました。「マスク美人」とは、マスクの下に隠されたところが、マスクをしているときには実際よりも美化されやすいことを示す言葉です。このように、人は何かと自分の中の理想像を人に映し出しやすい傾向があるのかもしれません。「リアコ」もそうした、自分の中の理想像を人に映し出しやすい傾向の延長上にあると考えられます。
生きる喜びとしての「リアコ」
冒頭で書いた、「リアコ」に落ちた人の空想例をお読みになり、全く理解できず、ついていけないと眉をひそめた方がおられると思います。一方で、羨ましいと思ったり、まるで自分自身が恋しているかのように楽しい気分になった人もいるかもしれません。
「リアコ」は正真正銘の本気の恋です。クラスメイトや部活の先輩・後輩など、身近で実際に会えたり、交流できる相手に恋焦がれる気持ちと何ら変わることはありません。「恋にうつつを抜かす」という表現があります。これは、現実や我を忘れて恋する相手に夢中になることを意味する表現です。この「恋にうつつを抜かす」という表現は、『恋にうつつを抜かす暇があるんだったら、英単語の一つでも憶えたらどうですか』など、一般的には否定的な意味で使われることが多い印象を受けます。「恋にうつつを抜かす」が否定的な意味で使われがちなのは、理性的であることを善とする現代において、理性を圧倒するような恋は価値の低いものとして捉えられがちなことと関係しているかもしれません。
しかし、「リアコ」であろうと、「リアコ」以外の恋であろうと、うつつを抜かすほど夢中になれるということは、今、この瞬間を精一杯に生きている状態であることを意味します。また、それほど夢中になれることをもつことは、人生に彩を与え、その人を生き生き輝かせる力をもっています。さらに言えば、うつつを抜かすほど心奪われて夢中になれることは恋の醍醐味でもあります。
人が何と言おうと、自分が好きだと思った「リアコ」対象を全身全霊かけて好きになり、恋にうつつを抜かすことは人間らしくて素敵なことだと思いませんか?