心理臨床の先達は、どのように卒業論文に取り組んできたのでしょうか?先生たちの出発点としての卒業論文に焦点を当てることで、私たちは、心理臨床のエッセンスについて、大切な示唆を得ることができるように思います。今回は、催眠療法と臨床動作法の実践・研究に長年尽力してこられた、田中新正先生にお話を伺いました。
「催眠」との出会い
心理学との出会いは、「偶然」でした。子どもの頃から病気がちで、小学四年生頃からは「あがり症」と「車酔い」をひどく感じるようになりました。そのような体験もあって医師を志していましたが、高校2年生のとき、たまたま古本屋で手に取った催眠術の本にあがり症の治療のことが書かれていて、催眠療法を学ぶことを直観的に決意します。この進路変更は当時なかなか理解されませんでしたが、周囲の反対を押し切って、早稲田大学第Ⅰ文学部に入学し、心理学を専攻します。
ところが、いざ大学に入ってみると、催眠を研究している先生はいなかったのです。そこで、学生による心理学研究会の中に「催眠グループ」を立ち上げ、成瀬悟策先生の著書を輪読して催眠の理論と技法を学びます。けれども、卒業論文では、指導できる教員がいないのでテーマを変更するように言われてしまいます。ともあれ、催眠をやるつもりで大学に来たので、その研究ができないのであれば、卒業できないことも厭わない覚悟でした。
催眠に関する「二つ」の卒業論文
卒業論文では、当初の意志を貫き、「催眠に関する実験的研究―社会態度におよぼす催眠暗示効果―」に取り組みます。その過程で、成瀬先生に直接お目にかかる機会に恵まれ、具体的なアドバイスをいただくこともできました。このようなご縁もあって、大学卒業後は、成瀬先生のおられた九州大学大学院に進学することを決意します。
まず研究生として在籍し、指導者を得て、催眠療法を学びます。この頃、「催眠暗示による乗物酔いの治療―乗物酔い態度と自我強度の関係―」という研究に取り組みました。バスによる修学旅行を控えた中学生を対象に、メンタルリハーサルによる集団催眠を実施し、同時に自我強度を測定しました。その結果、催眠群では、約90%に乗物酔い症状の改善が見られ、また統制群に比べて自我強度が有意に高くなっていました。催眠療法は、ただ症状の改善に有効なだけでなく、心理的にも効果が認められる可能性が示されたといえるでしょう。実践的に催眠療法を学ぶことを通して行ったこの研究は、自分にとっては第二の卒業論文ともいえるものです。そして、この論文を提出し、九州大学大学院に進学します。
卒業論文から心理臨床へ
九州大学大学院は、臨床心理学の大きな拠点のひとつでした。催眠療法をはじめ、動作法、精神分析、フォーカシング、エンカウンターグループなど、多くのことを学びます。また、非常勤の心理士として、病院で心理療法の実践を重ねます。この病院には催眠療法専用の面接室もあり、多くのクライエントさんに出会いました。そして、クライエントさんがよくなっていく姿に自分もとても励まされ、長く気にかかっていた自身の「あがり症」と「車酔い」も自然と改善していったのです。
縁があって大分大学に職を得てから、ダウン症の子どもに出会います。彼らの身体に触れたとき、臨床動作法が効果的なのでは…と直観し、現在に至るまで、ダウン症への動作法の実践指導と研究に取り組んできました。また、スポーツ選手のあがり症対策として、自己コントロール法の指導も行っています。催眠療法も臨床動作法も、その人が本来もっている自己治癒の力が発揮されるように働きかけるという点では共通の基盤をもっているのです。
卒業論文をめぐる田中先生のお話からは、「強いご意志」と「偶然のご縁」が結びつきながら、臨床心理学にとってひとつの大切な仕事が実現されてきたようすがうかがわれました。その人がもっている潜在的な力に眼差しを向け、その力の発現に力を尽くされる先生のお姿は、後進の私たちに多くのことを教えてくださっているように感じました。
田中新正(たなか・しんまさ)
1974年、早稲田大学第I文学部卒業(心理学専攻)。1982年、九州大学大学院教育学研究科博士課程修了。大分大学教授を経て、大分大学名誉教授。成瀬悟策先生から催眠・動作法を中心に教育訓練を受け、ダウン症の動作法に関する実践指導・研究に尽力する。著書に『催眠心理面接法』(編著、金剛出版)など。