ある日の面接にて

 数年前になりますが、友人関係で悩んで継続来談していた学生が、「実は、週末にお遍路をし始めました。自転車で回るので数カ所ずつしか回れないのですが、回っていると自分は大丈夫と思えるから不思議です」と面接の中で告白してくれたことがあります。それは私にとって四国遍路の心理的効果を実感する出来事でした。
 私の住む家のベランダから見える川沿いの道では、白装束を身にまとい、重そうな荷物を背負いつつもしっかりとした足取りで颯爽と歩かれている姿をよく見かけます。 このように、四国において、四国遍路は日々の心理臨床から何気ない日常に至るまで、さまざまな場面で登場します。

一二〇〇年の歴史をもつ四国遍路

 四国遍路、通称「お遍路」は、四国一周一二〇〇キロにわたる遍路道に点在する弘法大師ゆかりの四国霊場八八个所を巡る旅です。お遍路の起源には諸説ありますが、約一二〇〇年前の平安時代、真言宗の開祖である弘法大師・空海が四二歳のときに仏道の修行の場として四国八十八个所を開いたのが始まりと言われています。
 世界中には、メッカ巡礼やエルサレム巡礼など、聖地を巡る巡礼があります。それらは目的地を目ざす巡礼でありますが、四国遍路は最終的な目的地のない、世界唯一の円環型巡礼の終わりなき旅です(横山、二〇〇六)。

お遍路さん

 初期のお遍路は、僧侶が弘法大師の修行の地を尋ね歩くという過酷な修行でした。そのため今でも多くのお遍路さんは、白装束、金剛杖、菅笠といった同じような格好で巡礼をします。その衣装には、過酷なお遍路の途中で息絶えたとしても、そのまま成仏できるようにという意味や、俗世を一度離れて修行するという意味が込められています。
 四国に住む人は、お遍路の大変さを理解しているので、巡礼者に対して尊敬や応援の気持ちを抱いています。それが「お遍路さん」という愛称につながっています。四国には年間を通して国内外の至る所から多くの方がお遍路をされにやってこられますので、あちらこちらでお遍路さんを見かけます。四国に住む人が「頑張ってくださいね」などとお遍路さんに声をかけることもめずらしくありません。
 高度経済成長や本四架橋の開通のおかげでマイカーや公共交通機関などを利用して巡礼される方が多いですが、一九九〇年代頃からは原点回帰のように徒歩による「歩き遍路」が見直されるようになり、「歩き遍路」をされるお遍路さんも増加しています。

「同行二人」と自分自身との対話

 お遍路さんの合言葉として「同行二人」という言葉があります。お遍路さんが身に着ける衣装の多くにも「同行二人」の文字が書かれています。たとえ一人でお遍路という修行をやっていても、そばで弘法大師が見守っているという考えです。今は公共交通機関や情報機器の発達やコンビニエンスストアの普及などで便利な世の中になっているので、昔ほどお遍路は危険な旅ではなくなりました。しかし、昔のお遍路は厳しい修行だったため、途中で亡くなってしまう事もありました。そこで「同行二人」という言葉がお遍路さんの心の支えとなったのです。
 今でも「同行二人」は、弘法大師が見守ってくれているので、辛いことや嫌なことがあっても、安心して前向きにとらえることができるようになるという考え方として大事にされています。つまり、「同行二人」は、心の中にいる弘法大師との対話を通して自分自身との対話をする旅であることを意味しています。

「お接待」と人に支えられている実感

 遍路道を行くお遍路さんに対して、遍路道で生活する四国の人々が飲み物や食べ物、時として一夜の宿まで提供してくれる無償の行為のことを「お接待」と言います。「お接待」は、お遍路さんへの気遣いとともに、弘法大師への思いであり、信仰に基づく行為でもあります。お遍路さんは「お接待」を受けることで、さりげない他人のやさしさに触れ、生きる喜びを感じるとともに、ほんの小さなやさしさが、どれだけ人を幸せにするかを実感することができます。

心理臨床と四国遍路

 長い歴史の中で変化を遂げてきたお遍路ですが、今も昔も、弘法大師との対話を通して、自分自身との対話をする修行という意味は変わらないものかもしれません。
 黒木(二〇一二)は、弘法大師が見守ってくれていると感じるときは、四国の自然、お寺での勤行と祈り、地元の人たち、お遍路仲間などとの「つながり」により、感謝の気持ちが湧いたときであると述べています。また、歩き遍路の経験を通して、歩き遍路は、これまで非自己ととらえていた側面も受け入れて自己をまとめる効果があるという点で、心理臨床における自己変容に近いものであると述べています。
 この黒木の指摘を参考にしつつ心理臨床について考えると、お遍路の「同行二人」は、クライエントとセラピストの関係性にも当てはまる言葉かもしれません。クライエントの人生の歩みを、隣でセラピストが見守るという関係性はまさに「同行二人」ではないでしょうか。セラピストがそばで見守っていることを感じることで、クライエントが、自分自身との対話の中で生きる意味を見出すことができるという過程がお遍路することの過程に重なる気がいたします。また、クライエントにとって、セラピストによる支えだけでなく、日常生活の中での他者からの何気ないやさしさを受け取ることも生きる意味を見出す重要な体験になっていると思われます。それはお遍路で言えば「お接待」の体験に重なるのではないでしょうか。
 冒頭で登場した学生も、面接場面での私との対話とお遍路体験を通して、自分自身との対話を積み重ねることで友人関係での悩みを解決していきました。学生のみならず四国に住む人は、お遍路をすること、お遍路さんと出会うこと、あるいは四国遍路について語ることを通して、知らず知らずのうちに自分自身との対話をし、生きる意味を見出しているかもしれません。四国で心理臨床に携わる際、長い歴史の中で根付いてきた「同行二人」の考え方や「お接待」の精神が背景にあることを念頭に置いて支援を行うと、クライエントについての理解が深まり、支援がより役立つようになると感じます。

文献

黒木賢一(二〇一二)「遍路セラピー―歩き遍路体験による心の変容」『トランスパーソナル心理学/精神医学』一二(一)︑三八~四八頁
横山良一(二〇〇六)『必携! 四国お遍路バイブル』集英社文庫
星野英紀(二〇一一)『図説 地図とあらすじでわかる! 弘法大師と四国遍路』青春出版社

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