ネットは人とのつながりを広げる?狭める?

 『竜とそばかすの姫』(細田守監督、二〇二一年公開)という、母親の死によって歌を歌えなくなった女子高生が主人公の映画があります。高知県の山深い集落に父親と二人で住む主人公は、ひょんなきっかけから全世界のアカウント数が五〇億を超えるネット上の仮想空間の中で自分の分身(アバター)を作ることになります。その分身であれば歌を歌うことができるようになった彼女の歌声に全世界が反応し……と話は展開していきます。
 このようにネットのつながりによって人生がドラスティックに変化した人は、もはやアニメーションの中にとどまりません。シンガーソングライターの藤井風は岡山県里庄町という人口一万人規模の小さな町の出身ですが、彼が無名時代にYouTubeにアップした弾き語りの動画は世界各地で視聴され、なかにはドイツの黒人女性のように彼の演奏をカバーして動画をアップする人もあらわれました。こうした物理的な制約を超えた人と人とのつながりは、ネットなくしては起こらなかったでしょう。
 このような大それた話でなくとも、今や高校生の約五割はネット上だけの知り合いがいる時代であり(デジタルアーツ、二〇二〇)、同じ趣味をもつ人たちを中心にネットはこれまで私たちがもちえなかったつながりを生み出しています。つまり、ネットは私たちの人とのつながりを「広げている」と言えそうです。しかも、「隣の高校の誰か」でなく、「名も知らない都市の誰か」という予想もしないようなつながりを加速度的につくり出しています。
 一方で、ネットは人とのつながり を実は「狭めている」という意見も あります。
 社会学者の土井隆義(二〇二〇) は子どもたちのネットの使用について述べる中で、「本来、時間と空間の制約を克服することで、人間関係の流動性を促したはずのネットの発達が、逆に人間関係の幅を狭め、価値観の共有できる相手だけとの同質的な関係を促す背景にもなっている」と指摘しています。
 例えば、学校で親しくしている友人と帰宅後もLINEで通話したり、Twitter やインスタでつながったり、一緒にオンラインゲームをしたりなど、学校という限られた時間と空間を超えて絶えずつながり続けることが可能になっています。言い換えれば、学校の関係から「抜ける」時間がなくなるため、その居場所はこれまで以上に絶対的なものとなり、凝集性が高くなります。必然的に自分と価値観や趣味が似通った人たちとだけ付き合うようになるため、関心を抱く対象も生活圏も狭窄化した結果、人間関係が狭まっている子どもが存在するというわけです。

ネットのつながりについて考えてみる

 さて、ここまでネットにおける人とのつながりについてみてきましたが、ネットには人とのつながりを広げうるし、狭めうるという性質がありそうです。こうした点を踏まえた上で、ここからはネットのつながりについて筆者なりの考えを述べようと思います。
 一つ目は、ネットだからこそ他者とつながれる人も存在するということです。ネット上でのつながりは、リアルな関係と異なってその場にい る感覚などの身体性が伴わない、ブロックやミュートなどボタン一つで関係を切ってしまえる、といった批判がなされることがあります。言い換えれば、(リアルと違って)”本物のつながり”ではないというわけです。しかしながら世の中にはさまざまな事情から(リアルでの傷つき体験があることが多いですが)、リアルな人との関係に耐え難い生々しさを感じたり、ボタン一つで切れない関係に逃げ場のない怖さを抱いたりするがゆえに、他者とつながれない人たちも存在するのです。その人たちはネットという媒介があるからこそ他者とつながれると言えるかもしれません。
 二つ目は、ネットではつながれない他者も存在するということです。先の同質性の話にも通じますが、『弱いつながり』(幻冬舎、二〇一四)という著書の中で哲学者の東浩紀は、ネットはその人が所属するコミュニティ内の人間関係といった強い絆を強くするメディアであり、「たまたまパーティーで知り合った」というような偶然の出会い、すなわち弱い絆を得ることが難しいと指摘 しています。
 例えば、筆者はふらっと入ったうどん屋があまりにおいしいお店だったので、何の気なしにカウンターに並べられていた日本酒を飲んでみました(日本酒は嫌いだったので普段なら絶対に頼みませんでした)。その日本酒は衝撃的なおいしさで、それ以来、その店主に日本酒について教えてもらいながら、旅先で酒蔵を巡って日本酒の手ほどきを受けるほどに日本酒にはまるようになりました。これは些細な例ですが、この体験は筆者が「予想していない方向」 に確実に世界を広げてくれました。つまり、偶然性や予測不可能性があって、どこにいくか分からないということです。一方、先に述べたようなネットの「予想のつかなさ」とは、あくまでも「同じ趣味の」とか「同じ好みの」といったある範囲内で物理的・時間的制約を超えたネットワークを構築できるという意味であると言えそうです。
 このように考えていくと、ネットのつながりとリアルのつながりのどちらがより優れているとか、より良いとかいうものではないように思えます。どちらにも良さと限界があり、そもそも他者とのつながり方の質が異なると言えるでしょう。ネット中心の人もいれば、リアル中心の人もいるし、その間を行き来する人や一時的にどちらかが中心になる人、さまざまな人がいてよいのでしょう。

「生きていくのって、面倒くさいんです」

 最後に蛇足的に述べると、ネットでもリアルでも、結局のところ人とのつながりは面倒であるという点は同じかもしれません。どちらでもいじめやトラブルは起こりますし、自分が思ったように他者は動いてくれないし、人と気持ちが行き違ったりもします。そのため、悲しみや怒り、苦しみなどさまざまな感情が湧いてきます。でも、『逃げるは恥だが役に立つ』(海野つなみ著、講談社) の「面倒を避けて避けて、極限まで避け続けたら……歩くのも、食べるのも面倒になって、息をするのも面倒になって……限りなく死に近づくんじゃないでしょうか? 生きていくのって、面倒くさいんです」という平匡さんの言葉を思い出すと、人間である以上はこの面倒くささからは免れることはできないのかもしれません。
 人とのつながりがリアルだけでなくネットの中にもある、あるいはネットの中にこそある時代に、この原稿がネットのつながりを考えるささやかなきっかけになると嬉しいです。

参考文献

デジタルアーツプレスリリース(二〇二〇年四月)第13回未成年者の携帯電話・スマートフォン利用実態調査
https://www.daj. jp/company/release/2020/0407_01/
土井隆義「ネット社会の関係病理:つながり依存といじめ問題」『こころの科学』(二〇二〇年五月号)日本評論社

広報誌アーカイブ