私は所属大学で、「自殺学」という半期の講義を行っています。半期一五回×九〇分の間、自殺に関することばかりを話している少し変わった(?)講義です。その中では、例えば、「死にたい」と言っている人に対して危機介入を行う際に大事なことは、共感的に話を聞くことで、その背景にはこんな理論があるんだよ、といったような話をしていたりもします。この講義の中で学生からよく受ける質問の一つに、以下のようなものがあります。
 高校生の頃、私の友人がたまに、「死にたい」と言っていました。そういう時は私は、講義で出てきた話と同様、その子の話を否定せずに共感的に聞きました。最初はそれで良かったのですが、状況は大きく変わらず、むしろ、その子からは頻繁に「死にたい」と言われるようになりました。頻繁に言われるようになると、だんだんと話を聞いているうちにこちらが耐えられなくなり、最後は、「そんなに死にたい死にたいって言うなら、やってみなよどうせそんなこともできないでしょ」と言ってしまいました。それ以降、その子とは疎遠になってしまい、今では連絡もとっていません。あの時、私はどうすれば良かったのでしょうか。共感的に話を聞いているだけでは、ダメだったと思うのですが……。
 どうしてこのようになってしまうのでしょうか。「死にたい」と言っている人の話を共感的に聞くことは、その人との絆を構築し、孤独感を減少させ、死にたい気持ちを一時的に減らすという意味で有効です。ただし、それだけでは「死にたい」の背景にある、死にたい気持ちを引き起こすような問題状況そのものは変わりません。ですから、「死にたい」気持ちが沈静化している間に、そちらの本丸の問題をなんとかする必要があります。本丸の問題が変わらなければ、当然のことながら、死にたくなった時には、共感的に話を聞いてくれる人のところに「死にたい」と伝えてくるはずです。共感的に話を聞いていたのに頻繁に「死にたい」と言われるようになったということは、ある意味で、ちゃんと共感的に話が聞けていた、ということでもあります。
 そして、多くの場合、本丸の問題はそう簡単に変わるような問題ではありません。他人が少し話を聞いて、簡単にどうにかできるような問題であれば、本人がとっくに解決しているからです。本丸の問題は多くの場合、こんがらがったややこしい問題で、解決できるとしても時間が必要であり、立ち技で綺麗に一本がとれるようなものではなく、寝技を何度も試みて、ようやく判定勝ちが可能になるような、そういうものだと思います。
 なので、多くの場合に必要なことは、「死にたい」にたった一人で向き合おうとするのではなく、援軍を用意することです。自分一人で話を聞いているだけでは、こちらの気持ちが切れてしまいます。気持ちが切れた時に突き放すことしかできないのであれば、「死にたい」人と一緒に生きていくことはできません。気持ちが切れてしまった自分の代わりにその人の話を聞いてくれたり、気持ちが切れてしまった自分の話を聞いてくれたりするような人が必要なのです。使い古された言葉ではありますが「人は一人では生きていけない」というわけです。

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