「モテない」。何気なく使っているこの言葉、いざ考えてみると深い。「モテる(ない)」という言葉がどんな意味を持つのだろうということを、私なりに考えてみようと思います。

「モテる」に正答なし

 モテないということに悩んでいる時、人は他者を意識しています。そしてそれは特定の誰かに好かれたいという思いとは異なるように思います。「クラスの子にモテたい」のように、大雑把な集団を意識しているのではないでしょうか。そしてそこには「他者から自分をポジティブに思われたい」という思いが潜んでいます。さらに他者からモテたあかつきには、恋愛のような親密な関係に発展することも望んでいるかもしれません。なんだかそう考えていくとモテるための行動は、動物の求愛行動のようにも見えてきます。オス鳥が美しいさえずりをしてメス鳥の気を引くように、人間も自分の良さをアピールしているのかもしれません。ただ人間の複雑なところは、その人の良さを規定する要素が数多く存在し、そしてその良さを良いと思うかどうかも相手によって異なるというところにあります。外見一つとっても人によって好みは異なるし、内面で良い印象を受けているからといってモテないこともあるわけです。つまり、モテないことに悩む理由はモテるに答えがないから、ということなのかもしれません。「こうすればモテる」というものがあれば話は簡単。しかしそれは他者の価値観によって異なる。だから私たちはモテないことに悩むのかもしれません。

モテようとしすぎると自分を見失うジレンマ

 とはいうものの、ある程度のモテの基準というものは存在するでしょう。外見に気を使う、周囲を和ませ楽しませるような振る舞いをする、などある程度の他者から好かれる基準は思いつきます(そういうのを全く気にしない我が道をいく人もモテるというのがまた難しいところですが)。モテないことに悩む人はモテようと努力します。モテる体型になるために自分の大好きな食を犠牲にしてダイエットに勤しむ、自分独自のこだわりや趣味はやめにして流行のモノを追って周りについていく、このようにモテようとする努力が加速すると、ふとある時に気づくかもしれません。「私ってなんだ」と。本来自分をアピールするためであったモテるが周りに合わせすぎて自分を見失うきっかけとなってしまうのです。モテることを意識しすぎて、気づいたら自分は空っぽに思えてしまう。モテない悩みがはらむ危険な側面は、自分を見失ってしまうことにあると思います。

モテるは自分ありき

 本来モテたいは自分をポジティブに思われたい、と思うことであるはずです。モテない理由は様々ある。そしてある程度周りに好かれるよう行動することもモテるには必要、でもモテるに答えがない。だからモテない悩みへの答えもこれというものはありません。苦しい……。しかし価値観が多様であることは、チャンスなのかもしれません。美しいさえずりができなくてもモテる可能性があるわけです。モテたいを加速させ他者ありきになるのではなく、他者を通して自分の良さを再発見するような、そんな体験を持つことで、自ずと自分なりの美しいさえずりを見つけることができれば素敵なことだな、と私は思います。私が専門としている精神分析的心理療法というものは、まさにこの答えがなく苦しいけれど自分に向き合う体験を提供する心理療法です。その先に何があるのか、モテないを通して探求してみると、有意義なものが見つかるかもしれません。

広報誌アーカイブ